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デザインをどう考えるか

◆厳しい工業デザイナーの自己実現率

工業(プロダクト)デザイナーの自己実現率は非常に低く、おそらく1%未満、ひょっとすると0.1%位かもしれない。
これは脱サラしてラーメン店を起業した成功率、5%よりも大幅に厳しい数値で、おそらく小説家とか漫画家と同じ数値
と考えて間違いないと思う。
確かに工業デザイナーとしての道は他にもある。インハウスデザイナーとか、洒落た言い方をされているが、要はサラリ
ーマンデザイナーである。生活は安定しているし、退職後はそれなりの退職金に厚生年金が支給される。大手企業に入社
する手段としては悪くない。しかし、彼等がクリエイターとして満たされるかと言えば、現実には厳しいものがあるので
はないだろうか。
※横尾忠則人気は社会現象化して若者の憧れの存在となった。

私は「新宿で石を投げるとデザイナーの卵に当たる」と言われた1960年代後半にデザインを学んだ。 偶然の産物というか、確かに当時の時世をよく表している言葉である。 その多くはグラフィックデザイナー志望であり、この当時、脚光を浴びていた横尾忠則氏の存在ととしても大きかった。 また、工業デザインにおいては毎日新聞が毎日工業デザインコンペを50年代から実施して、結果を一面を使って発表して いたり、革新的バイクやスポーツカーを次々と開発した本田宗一郎氏率いるホンダの存在や、SONYやNikonの高 品質な製品デビューも関心を集めたことが見逃せないが、グラフィックデザインの圧倒的な注目度に比べると地味だった かもしれない。 ※ホンダはバイクレースを制覇し、いきなりF-1に挑戦

しかし、ここらで私達が抱いている「デザイン」の理解や、「デザイナー」の立ち位置を確認しておきたい。 日本は大戦に破れ、日本中が大都市を中心に焼け野原になった。無鉄砲な戦争の拡大と投資はその後の日本経済に深刻な ダメージを残し、まず、国としての復興を最重要な課題に据えた訳である。それ迄の鬼畜米英のキャッチフレーズは真逆 になり、特に米国をお手本とする志向に変わることになる。有力企業のトップは米国に視察に行くことがブームとなり、 中でも1951年に非公式ながら日本政府の招きで来日したレイモンド・ローウィの影響は絶大で、特にデザインを依頼する 目的ではなかったがタバコ「ピース」のデザインを急遽依頼され、当時150万円という破格のデザイン料が大きく報じられ た。「欲しがりません、勝つまでは」の精神が染み付いていた日本人には衝撃だったのである。 2年後には原書「Never Leave Well Enough Alonez」の和訳版「口紅から機関車まで」が出版され、敗戦から僅か8年に して日本は大きく舵がきられていく。 そして、翌年の1955年には多くのデザイン専門誌が創刊され、さらに2年後の1957年には産業界の大きな指標となったG マーク(グッドデザイン)選定制度がスタートしている。 結局、敗戦で貧困にあえいでいた時世、経済復興には産業立国のために輸出振興を外貨を稼ぐ工業奨励のために、オリジ ナルデザインの大切さを浸透させる必要があった。これに続いて美術大学創立ラッシュ、世界に類を見ないデザイン学科 増産によるデザイナーの大量排出を目論んでいる。 ◆得たものがあれば、適わないものもある。 時代は激しく動き回る。「デザイン」に急激に関心が集まり、職業としても大きな注目を集めることになる。 グラフィックデザインは「商業デザイン」という呼称から抜けて「グラフィックデザイン」という名称にデザイン本来の 大切なものを失いまいとする姿勢が感じられる。特に1965年に開催された「ペルソナ展」はさらに一歩踏み出してスター デザイナー、またはデザイナーの作家的な活動の地位を築こうとする大胆な試みだった。以降、紛れもなくその路線の一 端は受け継がれており、「デザインの作品性」を堅持するものとして評価されよう。※ 一方、工業デザイナーは1952年「日本インダストリアルデザイナー協会」を設立、1969年にはいち早く法人化も退けて、 今日に至っているが、内容やデザインに対する思想性はほとんど変わらない。 作品より製品、製品よりは商品が重要視され、60年代後半に浸透した「売れるデザイン」は至上のものと位置付けられ、 、確かにユニバーサルデザインやバリアフリー、マイノリティーのためのデザインか、ササスティナブルデザインが提唱 されたことは史実だが、基本はその枠内であることは否定しょうがない。 実際、60年代前半までのピュアな工業デザインは購買欲をそそるようなデラックスな外観や視覚的な消費を狙ったような 訴求が目立つようになり、それは神社仏閣型のテレビや、まるでアメリカ車のようなカーデザインに現われていた。売ら んがための短絡的デザインが大流行となったのである。この流れはオイルショックを経て安定経済へ向かい、80年代に 虚飾を廃した無印良品などが登場、クルマも身の丈にあったハッチバックなどが普及して沈静化したが、依然として虚栄 心を満たすようなデザインは存在している。 ◆工業デザイナーは「小説家」に似ていると考えておく必要がある。 デザイナーの「個性」や「思想性」はないがしろにされているのは、冒頭に書いた工業デザイナーの自己実現率と重なる ものがある。社会や企業が追求しているのは「経済」であり、デザイナーの個性を実現するための対策などあるはずもな いという厳しい現実。個性が大切であるデザイナーは与えられた課題に、自己を殺し、企業に忠節を誓って仕事をする事 を使命と自覚して人生を終える人が大半となる。社内デザイナーであれば、尚のことである。

頑張って、ようやくグッドデザインに選ばれたとしよう。その賞状の受賞者はメーカーの社長であり、デザイナー名は但 し書きとして記されているに過ぎない。 これを全て認めて受け入れてしまっては何もならない。 ※1969東京造形大学4年生の学園祭 クラステーマは「インダストリアルデザイン批判」だった。中央は清水千之助先生 同級生の陰に隠れて制作物が見えないが、わざとむ汚らしくデザインされた車や家電が生活空間に侵入している様が表現 、A・メンディーニの「Global Tools」(1973)さながらの訴求だった。私は前列右端で唯一、就職が決まっていなかった。 「売るためのデザイン」に反感を覚えた学生時代 「美」を追求するカーデザイン・スタジオがイタリアでカロッツェリアとして活動していることに感動して工業デザイン を学びはじめて、最も落胆したことは、当時、デザインが生産や販売目的の手段と位置付けられ、急激に舵が切られたこ とだった。価値(価格)が必要以上に高く見え、買うためのデザイン、消費するデザインが評価され、もてはやされ、讃 えさえされる時世を急激に迎えてしまった。確かに高度経済成長期だったが、「公害」という言葉が生まれ、負の遺産も 多かった時期、大切なデザインの美より優先する判断、価値基準が誕生したことは事実である。 これはアメリカ発のデザインであり、まっ先に実践したのが日本だったが、ジワリと世界に浸透していく。国産メーカー だとスバルの60年代のデザインと70年代に入ってのそれは明らかにテイストが異なっている。 また、山梨県は山中町にあるアバルトギャラリー美術館に展示されている名車は1960年中盤のものをメインにコレクショ ンされたもので、オーナーの小坂さんの聡明さが理解出来る。 目的と手段を入れ替えてしまう行為。 「開拓農民」の姿こそ、工業デザイナーに求められる。 21世紀のプロダクトデザイナー像(福島県立美術館 2001年企画展寄稿文) 1960年の後半は「新宿で石を投げるとデザイナーの卵にあたる」と言われた時代でしたが、恥ずかしくも私はその時、 そのデザイナーの卵でした。あの時は「デザイン」という言葉が今の何倍も輝いていていました。しかし、アッ言う間に 高度経済成長も終わり、「デザイン」という概念自体が多くの矛盾を秘め始めることになります。私自身のデザイン活動 はこの次々に浮上する「デザインの矛盾」との格闘だったような気がします。 私は昭和22年、東京からの疎開先だった三春町の山奥で生まれ、その後隣町の船引で十歳まで過ごしました。4〜5歳 の頃から絵を描きまくり、貧しくて紙がないので新聞の折り込みの裏などに描いていました。その絵はいわゆる「お絵書 き」ではなく、自動車やバイク、飛行機等を自由にデザインした絵でした。デザインなどという言葉がなかった時分、本 能的にデザイン行為をしていたことになり、何とも不思議な気持ちです。 その後、多感ながら、比較的普通の思春期を迎えました。が、授業中にヒッソリと自動車のデザイン・スケッチとか描い たりする性癖は抜けず、やがて中学生活も終わろうという3年生の夏休み、私の人生を決定付けるような衝撃的な雑誌に 遭遇しました。それは新進の自動車雑誌「CARグラフィック」のピニン・ファリナ特集でした。 ピニン・ファリナとは世界のスポーツカーの代名詞のように言われる「フェラーリ」の一連のデザインで知られる、まさ にデザイナーの頂点に君臨するトップ・デザイナーでした。そこで紹介されている一つ一つのデザインが美しく、まるで 宝石のように輝いていました。移動する道具に過ぎない自動車がこんなに人の心を魅了することに強い衝撃を受けました。 そして、私は自然とデザインを学ぶ決心をしていました。 大学のデザイン科に入学し、夢と希望に満ちあふれた日々となりました。が、やがて何となく嫌な話を耳にする回数が増 えはじめ、どうも企業で実践しているデザインとは、私が感動したあの「デザイン」とは随分違うものであるらしいこと を知ることになります。デザインとは「美しいもの」を探求する行為ではなく、「売れる商品」を作ることが至上命題だ というのです。 この「売れる商品」のために「マーケティング」という概念があり、デザイナーはその翻訳者であったり、代弁者という 位置づけです。その説得や説明のために「プレゼンテーション」を経営者や最高決定機関にし続けるのがプロダクトデザ イナーの仕事と知り、私は愕然としました。何となく塞ぎ込んだ気分で卒業することになりましたが、またしても私の目 の前に新しい希望を切り開く本が目に止まりました。それはイタリアの「ABITARA」と「domus」でした。 このインテリア雑誌と建築誌は毎号素晴らしいプロダクトデザインを紹介していて、よく調べて見ると、それらの大半は 中小企業が生産しているもの分かりました。卒業して3年目、私は、そこに大きな展望を抱き、日本における実践を試み 始めました。 しかし、生意気に社会や当時のデザインを批判する癖に、いざ「どのようなモノを作れば良いか」という課題に対し何も 解らない、という自分を発見することになりました。何と、最初の発見は「何もわかってない」自分自身だったのです。 そこで自主的にデザインの課題について考えるグループで研究会を作りました。そして、70年代中盤、当時珍しいと言 われたプロダクトデザインの(プロトタイプ)デザイン展を銀座のデパートで開催することにました。 これは話題性もあるということで全国版の朝刊に取り上げられたりして、企業や社会に新しい提案として受け入れられま した。その時発表したものが商品化され、ヒット商品になったものもあります。また、特定の企業と長期の商品開発契約 を結び、10年後、前述のイタリア誌の日本特集で数多く紹介された事例なども生み、一つのアプローチとして規模は小 さいながら目標が達成出来た訳です。 そして、同じような手法で我が国の代表的な伝統工芸である「漆工」を現代の生活に応用する「漆デザイン」を展開し、 外来文化では成しえないテイストを形に出来たことは幸運だったと思います。特に青森県の「津軽塗」で、新しい視点と 考え方で「ネオツガル」という新世界を切り開き、伝統工芸をモダンデザインに応用しましたが、若手のの職人達との制 作は緊張に満ち、充実したものでした。 結果的に私が先に示した目標を実現する生産方法がハンドメイドや工芸と結びつくことになりましたが、そこにはまた、 もう一つの発見がありました。それは、あまりにも「大衆消費・大量生産」を前提とする余り、私達が持っていた個性が 失われ、生活を取り巻く空間までもが工業製品的な均一で平板なモノで埋め尽くされているということです。特に都市建 築空間を凝視してみると、そこで使われているものは「大量生産」の概念に適っただけの平凡で無表情なものであること が分かります。 そんな現代空間に「工芸」の持つ豊かな個性や、ハンドメイドならではの力強さが意外にも魅力を放つことが分かりまし た。開発実践中の「津軽塗」や建築用「ハンドメイドガラス」はこれからの工芸の在り方を示す一つの方向として注目さ れることになると思います。すでに我が国のトップクラスのインテリアデザイナーが数多く設計に取り入れ、新しい工芸 の見せ場が現実のものとしています。 今振り返って見るとすべてのデザイン行為には目標とか課題が必要不可欠だった、という当たり前のことが明確に分かり ます。モノを生産すること自体に意義があった時代は去り、ゴミや環境問題などから厳しくモノ作りの姿勢が問われる時 代になっています。安易な利潤追求のためだけのデザインは終わろうとしているのです。 さて、ここでデザインの問題として大切なことを語っておこうと思います。それはまず「何のためにデザインするか」と いうことです。簡単な思いつきやデザイナーの創造欲だけでは企業は受け付けません。仮に採用されたとしても、今度は 市場や社会が受け付けません。ラッキーにも店頭に並んだとしてもゴミ箱に最も近いモノになってしまう可能性が高いと 思います。 企業側に対する社会的な要請も、経営者に新しい資質を要求しています。デザインが分からないのに「決定権」を持って いる場合が無数に存在しましたが、こんなことはこれから、まったく通用しません。むしろ、感性に偏重しがちなデザイ ンを正し、理性をもって、その「感性を見抜く」能力が必要不可欠ものになるでしょう。その力量がデザイナーより劣っ ていて当たり前、という認識は間違いと考えておく必要があります。 また、社会的視点で「デザイン」を注視し、ある時は批評し、ある時は讃える姿勢がそろそろ必要だと思います。世の中、 経済活動と無縁なもの探し出すことは困難ですが、「儲けてナンボ」だけしか評価基準がない社会はそれなりのものでし かありません。歴史的に世界屈指の芸術文化をもっていた我が国の誇りをそろそろ取り戻したいものです。 20世紀はデザインが産業発展に貢献し、経済活動の一助となった時代でした。しかし、21世紀は社会はもっと多様に なり、個性化が加速するでしょう。であれば「モノ作り」にもアートディレクターが必要になるはずです。一見、民主的 な合議制によるデザイン決定は正しいように思いますが、製品を平凡なものにするだけです。過去の歴史を見ても優れた 芸術文化が集団的な考察で誕生したことは皆無です。 21世紀はプロダクト・アート・ディレクターの時代だと予感します。

岡倉天心・柳 宗悦・三原昌平




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