なぜ漆のデザインだったか、経緯などの話

漆への興味のはじまり


もともと私の父の生家は仙台ということもあり、立派な漆器がたくさんあった。
その重厚な感覚の割に木製なので軽いというアンバランスさが幼い頃の体感として残っていた。


イタリアのカーデザインスタジオ、カロッツェリアに憧れてデザインを学び始めて最初の疑問の一つに、社会がデザインを取り上げている割には少しも良いデザインのものを見かけないことだった。
そんなことなので、今では聞かなくなった「デザイン啓蒙活動」を東京は銀座の松屋百貨店でグッドデザインコーナーが設けられ、特異な存在感を放っていた。
しかし、行ってみると失礼ながら開店休業状態で、その一角は閑散としていて、イタリアの建築家がデザインしたというセクチコンという時計がやたら目立っていた。
他の売り場は大して変わらず、普通の通俗的な商品ばかりだった。
1960年代の後半なんてそんなもので、しかし、客の混雑の度合いは他に娯楽が少なかったこともあり、大衆は我先にと訪れて大混雑していた。
私の自宅は東京、板橋区にあり、大学は中央線の終点、高尾が最寄り駅だった。
授業が終わると途中下車駅だった新宿で降りて、デパート散策を日課としていた。伊勢丹、三越、京王、小田急、丸井とかもあった。
何回も巡るうちに、私はある一角のファンになった。
それは京王デパートの「茶器茶道コーナー」。商品性をアピールした飾りは一切無く、陶器や漆の素材をシンプルに形作ったもので、高価だったがとても美しかった。
それは茶道という狭い世界であっても、その後知ることになるミニマリズムに一脈通じるコンセプトがあり、何度もその売り場を訪れたと記憶している。
大学を卒業して約4年で友人と渋谷に事務所を構え、フリーランス工業デザイナーとなった。
勿論、直ぐに仕事の依頼などあるはずもなく、提案(売り込み)デザインで企業回りに終始していた。
が、徐々にデザイン業として起動に乗り始め、私の漆に対する我慢出来ない思いが沸き立ってきた。

私は渋谷の事務所で人が集まりやすいという地の利を生かしてデザイン研究会を立ち上げていた。発表会場は銀座の松屋デパートで二回続けた後、西武デパート池袋店のアトリエヌーボーというギャラリーで開催した。
その縁で担当者に漆に対する考え方を話したことがあった。そしたら意外なことに「それだったら、内の専属の漆器問屋があるので訪問したらどうですか」とアドバイスされた。
早速、簡単な企画書を作成し打診することになった。


漆器問屋さんがクライアンツ
漆器は和食器であり、他の売り場には並ばない。ニューファミリーという時代に相応しい製品を漆塗りで開発デザインしたい。そんな内容だった。
当時、同社の経営者は秋田県の川連漆器の製造会社の社長を兼務していて、「あなたの発想に共感した」と言っていただきスタートすることになった。とてもラッキーだった。
さらに、この話には幸運なことが多かった。
まず、秋田の会社には人格的にも専門的にも優れた佐藤市秋さん(故人)という工場長がいた。未熟な私を優しく受け入れてくれ、普通だったら抵抗あるデザインに対応してくれたことは大きかった。
もう一つはその池袋のデパートには新しい食器を提案するコーナーがあり、そこはデパートの企画開発と直結していたので何かと優遇してもらった。
いよいよ仕事が始まると社長からアンケートの実施を求められた。なるほどと思った。
一般の人が漆器にどのようなイメージを抱いているか。新しい漆器にはどんな品目を連想するか。そんな内容だった。
FAXもインターネットなんか無い時代。確か百人くらいの対象人数だったが、初めての経験ということもあり大変な労力だった。
約3割の人達は無関心だったが、日本人の漆器に対する文化的な捉え方がある一方、若い人達はあまり深く考えずに「色々なものに塗ってみたら」的な軽い反応もあり、和食器売り場を離れた商品開発の可能性を感じさせるものだった。
が、当時は今のように文献や専門誌がたくさんあるわけではなかったし、頼りは松田権六さんの著書くらいの知識しかなかったので、デザインの打ち合わせはすれ違いが多く、なかなか進まなかった。
先に秋田県の工場を見学しようということになり、冨貴工芸を訪問した。全国から見学に来るという木製椀を中心とした一貫生産。つまり、漆器産業が分業化されて成り立っている世界で、木地の粗挽きから轆轤、下塗り、そして上塗りまでを全て、一つの工場でやってしまい合理化しようというものだった。木は栃を使っていたが、少ない職人達による仕事は見事だった。
が、冨貴工芸をベースにすると轆轤で挽いた木製品ばかりになってしまう。
そこで、まず、こちらで木地を用意して漆を塗ってもらう手法に切り替えた。

その中の一つにただの「平な板」というものがあった。これは事務所があった渋谷の東急ハンズの工作場に頼んで合板によるものだった。モジュールを考え、10cm四角、10cm×20cm、その三角形という具合だ。合板は安価ながら平面性に優れ、比重もやや重いので、板辺にしてはそれなりの重厚感があり、そこまで効果を読んだ訳でなかったが新しい漆器をアピールするには適していた。
ちょうど、その発表展示会にジャパンインテリア誌の編集者だった川床さんも来てくれて「世界のテーブルウェア特集」で紹介してもらったことも大きかった。
これ以上、単純化出来ない形という評価は松屋デパートの銀座店にも広がり、漆器の新しいコンセプトとして注目を集め始めた。
この路線は既存の成形合板を使っての展開も行われ、当時のニューファミリーマーケットとしてホームパーティー用に直径60cmのものなどが好評だった。
これは新しいものに敏感な業界人であれば鮮明に記憶されている漆器業界の出来事でSIQ(サイク)シリーズと名付けられたが、3年ほど経った頃から波風が立ってきた。同業にある最大手の漆器問屋が有名ファションデザイナーに依頼してモダンシリーズを乗り出してきた。確か、記憶では箱ばかりだったと思うが、非常に奇異な印象だった。
何やら騒ついて来た頃、その流通業社はもう一つのプロジェクトに違和感を感じるようになって来た。私のプロジェクトが大儲けをしている訳ではないので、会社としては危機感を持ったのだろう。担当は社長の長男だったが、月に一度の打ち合わせには社長が出るようになり、終いには会社に着くと「お茶を飲みにいきましょう」となり、2、3ヶ月後に契約の終了を言い渡された。
何とも意外だった。
と言うのも、私のプロジェクト自体が頼りの百貨店から注目され、評価されて何度か開発責任者やバイヤーから相談を受けていたからだ。
そして、それはJCプロジェクトとして新しい和の開発、販売を全社を上げて展開される事になった。
一番それに関わるべき流通業社が、何と「余裕が無い」という理由で降りてしまったのだ。
最初のJCプロジェクトのイベントが渋谷店で行われ、有名デザイナーもオープニングに招待され、華やかな中、私自身は火付け役でありながら、実質的に関係を絶たれた状態だったので、とても複雑な心境だった。

次なるステージ


話が前後してしまうが、1983年に新宿のデパートのインテリアギャラリーから誘いを受けて個展を開いた。自分自身の初の個展が漆のよるものだった。
大理石の足の上に乗った棚は長野県の木曽漆器の業者に依頼した。ここの縁は漆流通業社社長の二男の紹介によるもので、新しいモダン漆家具で突然デビューした「ブシ」の製造拠点だった会社だ。
この個展、個人的には搬入の前日に父が入院し、2週間後の会期終了翌日に亡くなったので、体力、気力共に限界を味わい、正直、あまり細かいところの記憶が飛んでいる。
問題は翌年の同じ時期に個展を要請され、漆に関わる業者の足掛かりを新たに探さなければならなかったことだった。
そこで、以前から接触があった石川県は輪島塗りや加賀漆器の業者を訪ねたりした。
しかし、先のデパートがJCプロジェクトとは別にクラフトコーナーを新設、展開することになり、そのオープニングに来るように言われ、出席すると有名な陶磁器デザイナー、森正洋さんがゲストに招かれていた。
また、青森県工業試験場の女性スタッフが来ていて、会話する機会があった。
その際に、新宿のデパートでの個展の話をしたら、「一度青森を訪ねて見て下さい」との誘いを受け、早速出向いてみた。
試験場に着いて進めている実験などを見させていただき、直ぐに地元の最大手の漆器メーカーに案内された。
意外なほど大きな会社で、当時、全国的に最大手の一つだったらしい。
長男が工場長で、個展の説明をして、どうせなら商品開発をして見ませんかと言って、年間契約の費用などの話をしてその会社を後にした。

※初めて弘前を訪問した際にもらった地元共通の「津軽塗」パンフ


青森駅まで見送りに来てくれて、初冬の雪が舞っていた。
渡された津軽塗見本板が私には新鮮で眩しかった。
後で考えると、日本の漆器業界の歴史的な事が起こる火蓋が切られた瞬間でもあったように思う。
正直、会期まで半年の余しかなく、単純な造形のものでデザインを提出した。
畳や絨毯の上に直に置いて使う善である。面白くするために形がバラバラになり、別の組み合わせも出来る。
津軽塗の色々なパターンが組み合わさり、二重三重に別の表情になる。
モダンな形の津軽塗がモダンなギャラリーで初めてデビューした、と評された。
メーカーとしてのポテンシャルも確認出来て開発計画を練って、弘前に出向く直前の夏、突然とんでもない電話が入った。
社内不正経理が発覚し、経営が立ち行かなくなった、という内容だった。
今まで経験したことのない事態だったが、手の施しようがある訳でもなく、諦めるしかなかった。
この直後から、私は体調を崩したということもあり、友人と別れ、渋谷から事務所を自宅近くの多摩ニュータウンに移した。1985年10月である。
パソコンにも挑戦するため、発売されたばかりのMACを購入、他の仕事は順調だったし、通勤時間が省けた事もあり、ペースな猛烈に上がった。
翌年に入ってばかりの頃、津軽塗のメーカーの仲介をしてくれた試験場の女性スタッフから「工場長だった息子さんは新しく三人で工房を作った。三原さんとの続きを希望しているが、やってもらえないか」という主旨の相談があった。
倒産した会社の息子さんだし、クライアントとしてデザイン料を出してくれる望みもない。と言って、これでは外的要因とは言え、途中で2度も続けて終わったことになってしまう。迷いに迷った。
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結局、清水の舞台から飛び降りるような心境で考えて見ることにした。
それというのも、ある津軽塗に対する思いがズゥッと心に残っていて、それに挑戦してみたいと思っていたからである。
それは、最初に弘前を訪問した漆器会社の工房を訪ねた時、おびただしい数のパターンサンプル板は実は多くが唐塗り(からぬり)で、その失敗作と思われる分厚く塗られたグロテスクな模様に強くここ打たれるものがあった。
伝統工芸のワクにこだわらず、あの失敗作が持っている意味合いを掘り下げてみたい、、。
先ずは、唐塗りが仕掛け箆によっているように、新しい柄を生み出す原理を再考すること。これだと思った。
しかし、やるからには東京で発表する心意気でありたい。発表会場は六本木のAXIS。こんな構想を持って弘前の工房を訪ねたのだった。
振り返れば、所謂バブル経済が始まった86年。その初めてに新しい津軽塗の構想を練った。
コンセプトの事、ビジネスモデルの事、工房のポテンシャルの事、発表会の事、そして資金をどうするか、という事。
●コンセプト。
これは津軽塗と認定されているものから外れて、その原理だけを応用した新しいパターン開発を基本に据えること。
●ビジネスモデル。
まず何と言っても工房のプロモーション。存在を知ってもらい、信頼して貰えるアピール。
●工房のポテンシャル。
当時、3名だったので、複雑な造形な避けた中で、場合によっては木地を小田原で作る事を想定した。
発表会は東京、六本木のデザイン発表会で使われる設立5年のAXISギャラリー。ただし初回は小さい方のアネックスを予定した。
●資金。
製作だけでなく、発表会場費、作品撮影など、今迄の地元発表スタイルとは違う経費が掛かる。工房の財布の中身は見れないので、基本的に双方が250万円づつ負担する構想とした。
(パソコンを初めて使い、初めての企画書をやっと準備して弘前に行く前日、3月というのにもの凄い雷雨だった。停電も起きて、フロッピーディスクに書くこまれたデータは失われたいた。今ではこんな事態にはならないが、当時はHDも付属していない、たった512kbのメインメモリー、とても貧弱だったのだ。)
初めて彼等の工房を訪れた。弘前市内の確か2階建ての建物だったと記憶する。そこで、津軽塗の新しいパターンの概念を説明した。
柄は手でドローイングしないで、道具を介すること。これは唐塗りが仕掛け箆を使い、ななこ塗りが菜種を使う事に習ったもので、その道具の種類のなる可能性は無限だと説明、ヒントとなるアイデアについて幾つか話した。今回のメインテーマはこの新しいパターン開発であり、津軽塗り伝統工芸が数種類に限定して認定されている事に対する問題提起でもあった。
もう一点は、始まったばかりの新しい工房を魅力的な存在として知って貰うためのプロモーションを試みることで、これはAXISギャラリーアネックスでの発表を私の個展ではなく、彼等を主役として感じられるように計らった。

1986年 第一回NEOTSUGARU発表展示会 AXISギャラリーアネックス

3ヶ月が経過した頃、AXIS側に概要を説明するために、新しいパターンのサンプルを持参して三人の中で一番若い職人が上京した。ご対応いただいたのは事務方トップの林英次さんで、まだ私自身が見ていないものをいきなり披露するので、とても緊張した。
厳しいご指摘を覚悟していたが、若い職人だったこともあり、とても優しく評価されて、館内の色々な場所で見え方が変わることなどを試され、とても興味深く見ていただき内心ホッとした。
この時は勿論、全部のパターンが出揃った訳ではなかったが、私の考えた方向性は間違っていなかったと確信した瞬間でもあった。

1986年9月5日〜8日、東京は港区六本木にあるAXISギャラリー・アネックスでTSUGARU漆展を開催した。
津軽塗の力強さを表現するためと、先ずはダイニングテーブルに応用して見るために所謂3×6板(900×1800mm)をメインに、3台だけ高さ700mmのテーブルを展示した。
この時点でNEOTSUGRUの概念は出来上がっていなかったが、兎に角、津軽塗としての発表会としては異色なので注目された。
来場していただいたのはまだまだ少なかったが、「室内」誌やicon誌、また島添昭義さんが雑誌の連載で紹介していただいた。





つづく






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