三原昌平作品徹底解説



撮影−加茂和夫

ステンレスのデスクセット(1975)

フリーになって東京は渋谷に小さな事務所を構えた頃に依頼された仕事。依頼主はダンインテリアの横田
社長で、メーカーのプロデューサー的な仲介者だった。デザインの締め切りは一ヶ月後だったが、これは
面白いデザインが出来ると直感、デスクトップの用品シリーズとして考えることにした。メーカー名は福
岡県の脇田製作所と言った。
特徴はステンレスのシームレス管を使っていることと、底板がパイプ側に「カシメ」で一体化されている
技術だった。私自身、デンマークのステルトン社、シリンダーラインの知識が無く、アルネ・ヤコブセン
も知らなかった。が、少なくてもデザインを学んで社会人として活動した経験から、依頼主側が明確に良
いデザインを求められた最初の仕事だったので、一ヶ月間、この仕事に没頭して追求した。
まず、ステンレス本体にこれ以上の加工を施すことはコストアップに繋がるし、この原形が持っている美
しさを活かせないと考え、硬化性プラスチックとの組み合わせを構想した。
品目としては灰皿、小物ストッカー、ペンスタンドを上げ、応接用の灰皿、「大」も加えてみた。
形を考える段になって、私は初めて「造形」の難しさに直面した。ステンレスの底はエッジで丸みがない
訳で、これと合わせるプラスチック側にも「丸み」を与えると全体の形が整わないことに気付いた。いや
はや、デザインを基礎から学ぶような体験になった。
また、筒イコール、回転体なので、これに全部合わせてしまうと、変化がなく、整い過ぎて味気ない雰囲
気になってしまう。その折り合いの難しさ、である。
アイデアスケッチやペーパーラフモデル制作を早々に切り上げて、製図でデザインを練る作業ばかりしな
がらデザインを完成させた。プラスチック側はツヤ消しのブラックとした。
モックアップモデル、ワーキングモデルも完成し、実際の生産準備に入る前に日本デザインコミッティー
の選定委員会にかけられた。
結果は合格で、「デザインがシリンターラインより素晴らしい」と絶賛されたと報告書に書いてあった。
恥ずかしいことに、この時、初めて「シリンダーライン」を知ったのだった。
しかし、ここから難問の第2幕が始まった。
うろ覚えだが、たしかメーカー側が福岡ではプラスチック側が出来ないので、「どこか紹介してほしい」
ということになり、東京近郊で何社かに打診してみたが、「ツヤ消し」ではやったことがないという答え
ばかり。ようやく「社長が話を聞くと言ってます」という、新橋のヤマト化工を訪問した。佐久間社長が
待っていてくれて、「ン〜、ま、出来るかどうかやって見ましょう」となった。「費用はいいです」!
ホッと胸をなで下ろした。
結果は出来なかった。ここでは専門用語を割愛するが、金型製作の段階、成形後の処理、成形後の表面仕
上げ、いずれも不可だった。
結局、成形後→サンドブラスト→焼付け塗装がベストとなり、灰皿などで試験を実施し、合格となった。
※硬化性樹脂はベークライトではなく、同社が多用するメラミンが採用された。

発売された後は各方面で話題にはなったが、販売実績としてはパッとしなかった。というか、脇田製作所
(後のワキタハイテクス)の社長が私の考案した時計などに関心を持ってもらったので、継続して商品開
発の契約を結ぶことになった。1976年だった。
こうして九州の福岡にWAKITAありとなったスタートは切られたのだった。


●照明器具トライメッシュ(ヤマギワ)1977
60年代後半の学生時代、大型の展示ショーが幾つも立ち上がった中で、リビング・住宅関連の中では
ヤマギワのブースにあったPHランプとイサム・ノグチのAKARIシリーズが断トツの美しさを放っていた。
ヤマギワは私の中では特別の存在だったので、このデザイン採用は半信半疑だった。
しかも、しばらく経った夜中、電話が入りハノーバーメッセのIF賞に選ばれたとの事で、二重の嬉しさ
となった。
デザインはパンチング鋼板を使用するもので、その穴から漏れ出る光りが美しいことは知られていたが、
形を四角錐とすることで生産しやすく、ストックも重ねられるので、相対的に合理性が高いというメリッ
トがあった。意外にも、既存の四角錐のランプシェードがなかったので、販売面でも歓迎され、商品とし
ても成功したと評価された。
ヤマギワは今世紀に入って経営難で、他社の資本に救済された一時代を終えているが、先に上げたPHラ
ンプをはじめとする名作照明器具を正式に契約して輸入販売した功績に加えて、「照明」という文化を根
本的に見つめて企業体制を構築した姿勢は大いに評価されよう。
社内に設計部門があり、小売業でありながら傘下の器具メーカーに対して指導的な役割も果たした。この
トライメッシュも実施図面はヤマギワ社内で起こしてもらったもので、なるほど!要領が良いと感心した
ことを記憶している。その後のバリエーション展開においても、結局、デザイナー側に求められるのはア
イデアで、ヤマギワ側との役割のすみ分けは明確だった。その後もヤマギワから優秀な人材が社会に巣立
った行ったのは、こうした専門ごとの職能が明確だったからだと考えている。


paradise alarm clock 撮影−三原昌平 ●パラダイス・アラームクロック(ワキタハイテクス)1989 携帯やスマホが普及した現代より「時計」はまだまだ大切な道具だった80年代。時はまさにバブル経済 の真っ盛りであり、メーカーと続けた商品開発は10年を超えた頃にあたる。少しづつ増えてきたインテ リアショップでの販売実記も上がり、より複雑なデザインも可能になっていた段階だった。 ここで、二つのことが脳裏をよぎった。一つは当初、不振だった「無印良品」が伸びて来て、シンプルモ ダンでリーズナブルな領域では存在感が保てない、という危惧があった。好きだったモノトーンや白黒の カラーリングから抜け出す必要があると判断した。 もう一つは、誰にも話したことがない話。 イタリアのデザイナー、エットレー・ソットサス率いるMemphisが世界で話題になって5年が経っ た頃、「あの活動は終わった」との情報が入ってきた。大量生産を目指したものでないのに!?私はとて も意外に思った。寂しかった。(Memphisを理解したら驚愕する、世界屈指のデザイン理念!) そこで私は考えた。メンフィスにエールを送るリスペクト・メンフィス・コンセプト・クロック!!! そして、もう一つ。ここではジッと我慢でアイデアスケッチは描かず、この頃普及したパソコンの3Dを 使って形を練ることにした。ただ、この頃のパソコンは処理速度が遅く、Macintoshllだったが、 百万円もしたのに何とも動かず、アクセレーターを入れて何とか、という感じむだった。 従って、レンダリングさせる能力は無く、ワイヤーフレームでデザインを作り上げて行った。 そのワイヤーフレームも一番早いのは「押出し」の造形で、形の構成において他の方法は用いなかった。 次に、目覚まし時計は枕元に置くので丸っこい形が多く、近くで操作したり、見たりする機能で考えられ ているので、昼間、明るくなった部屋で見る外観はインテリアを飾るものとしては隠してしまいたくなる ほどだらしない。そこで、まず明るい部屋に映えるシンポリックな形や色を与え、目覚まし時計としての 形はそれに従わせるものとした。 メンフィスは少量生産というか、一品のプロトタイプでデザインを批評するような運動だったので、金型 を用いたプラスチックのインジェクション成形は用いられない。したがって、出来るだけ似たテイストと するために丸みを避け、プラスチックの抜きテーパー(角度)無しの造形で、しかも同社のポリシーとし ていた塗装仕上げなので、ちょっとした生産ラインを必要する。結果、大手時計メーカーのOEM生産で 、しかも中国で生産するという難易度の高い商品となった。一般の商品としては一桁少ない生産量で新し いニッチ・マーケットを具現化してきただけに成功するかどうか不安でならなかった。しかし、スースタ ンドクロックとしても、目覚まし時計も、ここに着眼点を置いた競合商品は存在していないので、そこだ けは自信があった。 最終的に、直前に文字盤のデザインを変更し、イタリアが世界に誇る建築誌「domus」のシンボルで ある縦縞を引用し、メンディーニ氏にもリスペクトを送った形でまとめられている。 そして、これも最終段階で変更したのは、足の左右を異なるカラーの仕上げとすることでメンフィス・コ ンセプトの不真面目さに少しでも近付けようとした。(ん〜、やり過ぎかなぁ?と、正直不安だった。) 確か、ワーキングモデルは作らずに進行した。
※最初の原案はこんな感じだった。paradise alarm prototype 実際の設計。私はデザイン図面のみで、正式な設計はOEM供給先で実施された。複雑な形状で、調整が 要る乾電池部周辺は蓋も含めて既存のものを使用するのは合意したが、製造する側の見解で提案された内 容は受け入れなかった。公差(ニゲ)の無い部品同士の合わせとか、プラスチックの抜き勾配、安全性の 問題。こうした課題を取り入れてしまうとデザインの狙いが台なしになってしまう。到底、妥協出来なか った。すると、打ち合わせを終えた翌日、そのOEM供給先の責任者から電話が掛かってきて「こんな難 しい図面は見た事がない。もっと製造する側のことも考慮してもらえないか?」と強く言われたが、何と か納めてくれるようお願いした。それほどメチャクチャに設計ではないので、、。 こうしてWAKITA社の商品開発では最も難しく、身の丈に合って無いようなデザインの具現化に向け てプロジエクトが動き出した。商品の名称は「パラダイス・アラーム」とした。 完成した商品はとても納得出来る仕上がりだったが、とにかく異質感が高く、販売面は不安で仕方がなか った。かと言って、オールブラック仕様の方が売れる予感もなかった。 ところが!発売されて間も無い頃、テレビに衝撃的な場面が映っていた。 それはTBSテレビの11時半前に流される天気予報のコーナー。アナウサーの横にポツンと置かれてい るではないか!!!衝撃的だった!天にも昇る気持ち、本体の原色カラーが鮮やかだった。 ※撮影−杉山一夫
杯シリーズ(富貴工芸)1982 それはTBSテレビの11時半前に流される天気予報のコーナー。アナウサーの横にポツンと置かれてい 「和食器売り場以外で販売出来る漆器」の商品開発はスローだったが確実に実績を積み重ねた。そして、 ついに西武百貨店のプロジェクト「JC(ジャパン・クリエティブ)」のコンセプトの中枢を担うデザイ ンとして一連の漆器にスポットライトが当たった、その最終章になってしまったのが、この杯(カップ) シリーズだった。 秋田県の川連漆器(かわづらしっき)にチャレンジしたのが1979年。漆器などに挑戦しているのは自 分だけで、よく仲間に嘲笑されていた。しかし、徐々に形になって行くと関係先以外からも注目を集める ようになり、遂には競合する流通業者が同じコンセプトで参入してきた。専門雑誌でも、発表会は必ず取 材され、知名度も上がっていった。 同社は東京の流通業者の社長が代表を兼務していて、現場には佐藤市秋さんというとびきり優秀な専門家 してくれ、仕事以外でも楽しい方だった。市場で受け入れられた以上に、ご苦労をおかけした佐藤さんに 、少しでも恩返しが出来た事が嬉しかった。後で「最初の頃は、あなたの考えがサッパリ理解出来なかっ た」と言われたが、まさしくそうだった。 この後のことは「実際にあった話」に詳しいのでご参照いただければ幸いです。

撮影−城戸和幸 リストウオッチ(脇田製作所)1984 通称、WAKITAがワキタハイテクスと社名を変える前の最後の商品の一つ。 クロックの機械(ムーブメント)は解放されて数年経った頃、腕時計を作ってみませんか?と打診があっ た。扱いは「外商」で、言ってみれば「特注」をOEMとして商品化する方法である。いよいよ、ここま で来たかと思った。 ただ、例によって先行投資は制限されるし、腕時計となると販売チャンネルがまるて見通しが立たないの が現実だったので、まずは評判を得ていたクロックの文字盤を腕時計に流用することにして、愛好家の気 持ちに訴えることにした。針もオリジナルは起こせないので、既存の針から選択された。まだまだ、本格 的オリジナルデザインに取りかかるには、どうしても販売ルートの問題の問題と、それに相応した先行投 資の見通しが立たなかったので、結局ウオッチにはあまり深入りしないで躊躇した。インターネットも普 及していなかったちし、、。


撮影−藤塚光政 TAMATEBAKO 1988 たかが箱、されど箱である。簡単に箱は作れるが、その出来映えの差ととてつもなく深く、図面上ではな かなか完遂することはない。そういう意味ではガラスのコップと似ていて、デザイナーのこだわりを育成 する材料としてはこの上ない。
撮影−加茂和夫 ステンレス&琺瑯タイル(脇田製作所)1977 たかが箱、されど箱である。簡単に箱は作れるが、その出来映えの差ととてつもなく深く、図面上ではな 社員が25名ほどで、私の担当者は当初一名。商品開発のテーマは漠然としたものの中で何が可能かを考 えた場合に課題になるのが商品のアッセンブリー(組立て)である。 既存の生産ラインがあれば、そこから発想する必要があるが、逆にそこに制限が生じる。真っ白な紙に何 かを描くドキドキ感と、何も手応えを得られず空回りに終わる可能性との葛藤。こんな中で発想したのが 金属製のタイルだった。 当時、注目されていたイタリアのタイルがあり、半磁器ながら寸法(焼き上がり)精度が素晴らしいとの 評価で、タイル同士がつき合わさる「目地」に狂いが生じないということだった。なるほど!施工現場に 見学に行って見ても、実に素晴らしい仕上がりに感服した。 確かに焼き物は焼成途中で細かな変形が生じ、伸び縮みによってサイズを保つのが難しいが、金属であれ ば切断やプレスを用いても大きさが変わる心配はない。そもそも、ステンレスや琺瑯といったタイルは存 在しないので、挑戦して見る価値はあると判断した。何より複雑な「組立て」という工程は必要としない し、仕上がりも無限に広がっている。 金属のままでは施工に問題があり、ゴムで裏打ちすることにした。ステンレス版は簡単に出来たが、琺瑯 は九州地区では外注先がないため、調べて関西の業者に頼みに行った。平面なので専用の鉄板は必要ない だろうという判断だったのでホッとした。 Lサイズを30cm角として、ゴムが飛び出たタイプも用意した。重い物や尖った物を落下させたテスト でも対衝撃性は充分だった。とても良い感じだったので、インテリア専門誌に広告を出すために色々と準 備をして、知り合いのグラフィックデザイナーに依頼、モデルを使った撮影も納得出来るレベルだったの で、インパクトがある広告となった。 雑誌が発売されると、その日の内から問合せの電話が鳴り響き、件数は200件を超えたという。物珍し さがあったとはいえ、想像もしない事態に驚いた。 さらに驚いたのは有名インテリアデザイナー設計の現場に採用されたことだった。 一つは美容院で見積もりが500万円超え、また、もう一つは事務機器のショールームで2千万円を超え る金額だった。嬉しい悲鳴だった、、、、。 ところが、あまりにも売り出したばかりの、短期間の大量受注で、不都合が生じてしまった。 まず、裏打ちのゴムの生産が間に合わず、急遽、軟質の塩化ビニールに変えてしまったことで、もう一つ は、ゴムとの接着に瞬間接着剤が採用されたことだった。現場が東京で、メーカーの福岡との距離の問題 もむ重なり、また、一流のデザイナーゆえに、不都合な結果に対しては容赦なく、私は矢面に立たせられ てしまった。 イメージとして、ワンポイント的な使われ方でなかったこと、量が増えた際の対処などが不十分だった事 など、慎重さを欠いていたことを反省した。 人生、ここまで大きな失敗が無かっただけに精神的にも落ち込んだ。が、それ以上に採用してもらったデ ザイナーの期待に応えられなかったことを申し訳なかった。 つづく

岡倉天心・柳 宗悦・三原昌平



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