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「私の家族と幼少期〜」



※私が生まれる前の1945年初秋、終戦三ヶ月の家族写真。 母が抱いているのは長男、伸太郎。その隣が母方の娘(和子)。 ここから、悪夢のような生活が訪れるとは誰も想像していなかったはずだ。 2〜30年前のことは忘れるのに、幼い頃の記憶が鮮明だったりするのはなぜだろう。 私は、福島県三春町(旧御木沢村)で生まれた。そこは戦時中の疎開先だった。 両親が再婚同士となったのは、戦争が終わる2年前。父の先妻は三女の出産後、亡くなり、また母も初婚の 夫海難事故失い、15年近く母子家庭だったが、他人を介して二人は知り合った仲だった。 無学の母にとって帝国大学卒で、海外勤務も経験して、飛行機関連の会社の副社長だった父はまたとない縁 談で周囲からも羨むほどの再婚だったと想像する。 ところが、1945年に長男を出産した時期から戦況が悪化、父を置いて父方の三姉妹と赤子を連れて疎開 したのが三春町だった。家というより納屋を簡単に改造したような住まいで、東京、吉祥寺の高級住宅とは 随分と見窄らしい生活だったと思う。 が、それは序の口も序の口で、母から見ると情勢が真逆になるような不幸が次から次ぎと押し寄せる。
まず、半年後の日本敗戦だ。 結果、父の飛行機関連の仕事は停止。さらに軍事産業と見なされ継続は許されず廃業となってしまう。 結果的に4年余の無職が続き、当事は福祉の概念もなく、母の連れ子は東京で職に就き、生活費は 母の持ち物だった衣服(主に和服)と農産物の交換に荒れ暮れた生活だったと聞く。 追い討ちをかけたのは敗戦から9年間続いたハイパーインフレ。300倍近かった物価高騰はお金の価値を 失わせ、農家にとっては大した価値もなかった和服との交換だから、母は頭を下げっぱなしだったと思う。 自転車が使える訳でもなく、道はデコボコ。砂利は申し訳程度にまかれているだけ。そこを私を背中におん ぶして、当事4才の兄の手を引いて片道15km以上歩く、、。 3才の時、母が私を連れて家出した時のことをボンヤリと覚えている。母の友人宅での暗〜い会話だった。 そんな雰囲気を一掃し、家族全員が明るくなったのは父の高校教員赴任だった。 隣町の船引(現・田村市)に普通科の船引高等学校が出来てのことだった。初めて記憶する家庭の明るさ、 まだ4才程度だったがその時の明るい会話まで鮮明に覚えている。 住まいは町外れの公民館を借りた。板の間の集会場を除いて2K、お風呂はお隣の駄菓子屋さんのものを お借りしていた。 水道のような便利なものはなく、集落が共同で使う井戸まで木桶をかついで水を運んだ。ブリキのバケツ を使うようになったのは、3年後、町営の住宅が出来て移転した頃だった。 この当事、私はムラムラと絵心が沸いて来て、何かと言えば絵を描いていた。が、貧しく、描く紙がない ので新聞の折り込み広告の裏面や父が持ち帰った高校の答案用紙に描いていた。それでもおさませず、住 んでいた公民館の外壁に描いたので、その度に母に大目玉を食らっていた。 5才になった頃、ホンダが原付自転車Cubを発売して、田舎町にもやって来た。エンジン回りが真っ赤 なカバーが付いていて、エンジンオイルの匂いが未来的で幼い子供の心を揺さぶった。 もう一つは「宣伝カー」だ。言ってみれば動く広告媒体で、今流に表現するとワンボックスカーを専用の ボディに仕立てたもので、特に屋根の上に付いていたキラキラ光るランプが異次元に美しく見えた。絵本 が無かった時代、本当にたまにやってくる、こうしたモータリーゼーションが憧れとなっていった。 したがって、絵は何時の間にかデザイン画になっていって、誰に教わるでもなくタイヤを楕円に描く工夫 やカッコ良さを追い求めていた。 兄弟の仲でも特異なこの行動を温かく見守っていてくれた父が小さなファイルに作品を残してくれていた。 テレビもマガジンもない時代に、よくこれだけ自然に創作が出来たものだと自分でも驚いてしまう。まあ 、後で気が付くことだが、やはり芸術系の仕事は、青年になってからとか、大学を卒業して才能が開花し た話は皆無に等しいので、自分自身も、親や教育者も、この点むを充分に注視して評価する必要があるこ とを証明する一つの事例だと思っている。 小学校に入って、世の中に幼稚園というものがあることを知った。入園していたのは街中の子ばかりだっ たが、どことなくお洒落だった。 一年生の授業が進み、夏休み直前に通称「腸パラ」の予防注射が実施され、私はこれに負けて発病してし まい、町内は大騒ぎになり、田舎のさらに山奥の避病院に隔離されることになった。病因とは名ばかりで 、診察室はなく、藁がひかれた粗末なベットに寝かされた。発熱は40度に迫って朦朧としていた。 後々驚くのは、内科の手術を受けて退院したばかりの母がずうっと看病してくれたことで、それは一週間 に及んでいる。寝る場所はベットの横の土間だった。売店など一切なく、差し入れの記憶もない。確か、 2回ほど郡山市のお医者さんが往診に来てくれた。が、食べることは許されず、また一切の食欲が断たれ た状態にあった。
退院して、お腹と背中がくっついたように痩せ細り、夏休みが終わってからの授業も午前のみ、昼前に早 退させられた。体力がないから予防注射に負けてしまったと思うが、発病によって、さらに基礎体力は衰 え、結果的にそれが成人する頃まで続いた気がする。後で考えるとだが、、。 図工が好きだった。クラスでも勿論、上図な方だったが、級友に田中君という子がいて、もう馬が走る絵 を描いたりするほど才能があり、ポスターの課題でも自分より上手かった。彼は、その後どんな道を歩ん だのか、、。 三年生になって「写生大会コンクール」があり、クラスから数名が選ばれ、私も参加することになった。 この時、私に大きな出来事が起こった。 一人ポツンと描いていると、郡山市から派遣された女性の指導員が私の側に来て「、、、、葉っぱは緑だ よね。でも、もっと緑に見える別の色を添えてみたら?」と言われた。ガァ〜ン! 何と言う事だ。見た通りに描くのが絵だと思っていたら、、。衝撃的な言葉だ。考えて描くと言う事だ。 人生で最大級の刺激となり、私は絵が上達した(と思う)。 しかし、我が家は後で振り返ると絶体絶命だった。 父が高校の教職に就いたのは、すでに53才で、定年は当事55才だった。したがって、父は再び職を失 い、毎日釣りに出かけていた。母の機嫌はすこぶる悪く、結局、親しい人が東京のカメラ・メーカーに仕 事を紹介してくれるまで無収入だったのだ。確か、この間、新しい露出計を考案して特許出願していたが 、その費用もままならず、私が小学4年生の秋に東京に引っ越すことになった。 この時、父方の長女は高校を卒業して郡山市内の病院に勤務していて、その下の姉は会津若松の親戚に預 けられていた。出発するのは両親と、父方の一番下の姉に兄を加えた五人である。 いよいよ引っ越しの前夜になった。お隣のお嫁さんが家族分の茶わん蒸しを持って来てくれた。初めて食 べる味に感激した。 朝、家族で駅に向かった。するとどうだろう。駅の小さな待合室は人でいっぱいではないか。ほとんどの 人が母を見送りに来た人達だった。とても意外で驚いた。 列車が到着するとプラットホームまで入って来て別れを惜しんでくれた。たった五年ほどで築いた母の人 脈。貧乏のどん底にあったことを考えると母のスゴさを実感する出来事だった。 東京に着いて、人と車の多いことに驚いたが、一番驚いたのは初めて登校した時に見た女の子の可愛らし さだった。福島県時代とは服装がまるで違い、短いスカートを履いているのでマトモに見れなかった。中 でも川名みどりチャンがとびきり可愛かった。 また、平然と話す標準語がキレイで、一気にコンプレックスに襲われたのだった。 さらに追い討ちをかけたのが、最初の日の図工。私は福島時代に使っていたクレヨンを持参したが、何と 東京では水彩絵の具を使っているという。絵ぐらいは自信が持てると思っていたが、あっさりと肩透かし を食らった気持ちになった。 図工の時間は校庭での写生だった。完璧に自信喪失の私は隅っこで一人で描いていた。 授業が終わりに近付き、ひとりが私の絵を見るなり「この子の絵、すご〜い!と叫んだ。全員が駆け 寄って来て大騒ぎになった。私は一気に劣勢をばん回し、「絵の上手な三原君」としてクラスは勿論、 学年でも知られることになり、一目置かれるようになった。 当事は団塊の世代の鮨詰め教室で、一クラス60名以上だったと記憶する。そんな中で、休み時間は級 友が、人気者となった私を取り囲む日々が続いた。 とは言っても、この時、父は既に59才で明日の運命は分からなかった。 けれど、福島時代と比べたら生活環境は雲泥の差で、私達家族は近所から「ほがらか家族」と称されて いた。呑気だった。 小学5年生になり、私は前に住む同じ年令の子が乗っていた子供用自転車をもらって始めて自転車に乗 ったら練習もしないで走れた。暫く経って父が狭山湖までサイクリングに行こうと言い出して付いて行 った。川越街道から野火止に入り、長い坂がある。粗末な昔の地図が頼りだ。道は今のように舗装され てなく、砂利道だった。曲がりくねった細い道を走ると、ようやく美しい湖に辿り着いた。しかし、そ こは多摩湖の方で、狭山湖はさらに奥だと分かった。ここまで、片道20kmほどで、休憩場所もなく 引き返すことになった。 帰り、川越街道までは下り坂だったが、川越街道の現在の和光市手前はちょっとした上り坂がある。私 は先行して楽に登り切って父を振り返ると、まだずぅっと下で必死にペダルを漕いでいる姿があった。 父はこの時、61才。呑気な私に初めて父の老いを感じさせた瞬間だった。 父は、結局、私が大学を卒業する2年後までカメラメーカーに勤務した。高度経済成長期だったこと、 高値の花だったカメラの大衆化が進んだ時代だった幸運が高齢の父を雇用してもらえた背景にあった。 敗戦で全てを失った父を夫にしてしまった母にとっても少しは報いられた人生の期間となった。 こうして、私達家族は2度の絶体絶命を乗り越えて今日に至っている。その絶対絶命の間には波乱万丈 な事件や事故も挟まっている事を忘れる訳にはいかない。2019年の時点で父方の三姉妹は他界して いる。不運や不幸を言い訳にすることは許されない。 他。 幼少期から思春期までの才能に蓋を出来ない。 何と言っても、とにかく、「図」が好きだった。 新聞を見ても天気図やグラフばかりに目がいった。 長嶋茂雄選手がデビューして興奮し、自分で「長嶋新聞」スクラップを作った。 新聞の取り上げ方や見出しが気に食わないと、自己流のレタリングで見出しを描いた。 学校で六年生の時の「図のIQ」は155だった。 担任の先生から区か、都で一番と告げられたが、そんなに凄いことと理解出来なかった。 とにかく、中学まで図工と社会しか勉強しなかった。特に社会は何時も満点だった。笑


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