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勝井三雄先生追悼文(2)

勝井三雄先生追悼文

グラフィックデザイナー勝井三雄先生逝去(5)
グラフィックデザイナーには事務処理的なデザイン、作家性が求められるデザインの2つに分けられる。
殆どがデザイナーは作家性など確立も出来ないし、求められもしない。
しかし、熱い思いで美大を受験する場合は、この作家性のあるデザイナーに憧れを抱いている若者が多いはずだ。
しかし、年がら年中作家的なデザインをやっていたらデザイナーとしては生計が立たない。個展や、企業の依頼から離れたイベント用のデザインは自前で印刷する場合が多く、その使い分けが肝心になる。
ある有名デザイナーは、仕事は定時で終えて、作家としての作品は自宅に帰ってから、と語っていた。簡単そうで、スタッフがいなけらば出来ないかもしれない。
勝井先生は、そのバランスが絶妙だったと思う。上記のの2つに、学究的な要素、例えば本の編集とか、論文や、解析、監修のワークも誰かが引き受けなければならないが、このジャンルでも貢献度が高い。
つまり、仕事として、作家として、さらに学究的なワークもこなされていたので、本当に見事なバランスの上に立っていたと言えると思う。周囲から、そして社会から認められなければ、やろうと思っても敵わない。過去、現在、未来の実績全てに信頼されていた証だったと思っている。
勝井先生を通して、もっと書きたい事があるが、これで終わりにしたい。デザイン界というものが
その中には権力が働いている。その権力を維持する為にどんな事をやっているのか、、。豊かな人格を汚すことなく、人生を終えた氏の功績を称え、心からご冥福をお祈りします。
1965年に開催されたペルソナ展メンバー
_勝井三雄先生逝去(4)
家族主義や同志という言葉は耳障りが良いが、それが権力を形成した場合、途端に悪夢が頭をよぎる。
まして、実力も目立った実績も無いのに、新しい戦術としてグループを結成することほど醜い行為はない。加えて、自分達に不利な人材を排除するバリアになっていたら、何をか言わんやである。ま、大概、これはセットであることが多いが、、。
「権威」であっても、自分達と同じ評価、価値であった場合は、新しい人を讃えて、権威筋のレッテルが貼られた人達は退くのが道理である。新しい人を押しのけて、スポットライトを受けるような事があっては絶対ならない。
個人商店、家内工業ならいざ知らず、例え理に適った実力があったとしても、身内を引き込んだり、外郭団体に世襲を持ち込む行為は論外と言わなければならない。
自分達の欲望を正当化するツールではないのである。本田宗一郎の立派さに学ぶことが多過ぎる。
勝井先生のご子息はファッション関連の会社を立ち上げて、これまた素晴らしい実績を上げている。お手本である。
もう、デザイン事務所として、一つの通り道が出来ていて、親父が引退しても仕事を引き継ぐだけの責任が伴う場合があるが、冷徹に言えば旧来のスタッフが賄える範囲であることは間違いない。ボランティア団体ではあるまいし、作家的デザインを特徴としているデザイナーであれば、自ずとどのようにするべきかは関係者も含めて十分に察しがついていると思う。看板は架け替える必要がある。
イタリアのファッションブランドは別にして、スターデザイナーが晩年にあれやこれやと権力を振るったり、権威団体、グループを作った話は聞いた事がない。新しいチャレンジをする際に集まっているが、終われば解散してそのままだ。イタリアからは、そういう点も学びたい。
_勝井三雄先生逝去(3)
東京造形大は最初、東京は中央線の終点、高尾駅から2キロ以上の距離にあった。多忙な身にあった勝井先生は電車で来られていて、高尾山の最寄り駅でもあった田舎の風景には何とも異彩を放っていた。
グループを作らなかった、と書いた。
残念ながら噂の東京オリンピックエンブレム問題の件ではその事に疑惑の目が向けられた。誰も直接、指摘していないが、権威団体は自分達を有志と称して覇権まがいの行為を繰り返し、それは美大の教授から展覧会出品メンバー構成、デザインアワードまで、幅広く深く浸透している。こうなると有志ではなく、仲間であり、明らかに互助会であり、排他的でさえある体質になり、デザイン振興どころか、新しい台頭を許さず、さながら悍ましい情報の改竄機関である。呆れたものだ。
勝井先生が監修した某社の美術教科書副読本。私の作品をプロダクトデザイン事例として収録していただいた際、よく見ると氏の作品は外されていて、そこに監修する立場にある人間の良識を感じた。余裕なのである。
私も、大学の専攻を立ち上げる任にあった際や、岐阜県のオリベ塾で外部から担当デザイナーを選ぶ際、敢えて親しい友人は選ばなかった。友は「何で選んでくれなかったのか?」と思ったかもしれないが、第三者から見て、そこに馴れ合いを感じされることを避けたのである。勿論、その基準によって弊害が出ることもあるが、振り返って正しい行為だったと思っている。
技量や人格両面で安心して任せられる事は大切だが、結局、それは世襲にも繋がり、風通しが悪くなる要因にもなる。世襲を至上のものとして自慢する人さえいるが、愚かとしか思えない。多くの場合、弊害があるのみだ。特に小説家とか画家は作家がブランド化して世襲出来るほど甘くはない。デザイナーも尖がっていればいるほど、継ぐことが出来るほど簡単な世界ではない。
また、勝井先生ほどのデザイナーになると、お付き合いや業界に貢献しなければならない立場になり、また大いに利用され、チヤホヤされる身である。誘惑も多いし、時には危ない橋を渡る事もあったと想像する。クリーンであり続けることは至難の業であり、簡単なことではない。その意味でも(専攻違いで教わったことがなかったが、)正しく勝井三雄先生として輝いていたと思う。


_グラフィックデザイナー勝井三雄先生逝去(2)
造形大入試の面接官だった勝井三雄先生は当時、35才という若さだった。1966年。
グラフィックデザインの一大イベントだった、前年の「ペルソナ展」に参加している。同展は勝見勝氏の後ろ盾を得て、亀倉雄策が加わって重みが加わっているが、何と田中一光の推薦で横尾忠則が滑り込み、ここで「横尾忠則」が劇的デビュー、アンチモダンデザインをぶち上げたのだった。6日間で35,000人も来場した画期的なものだった。
が、私は当時、高校三年生で、父から漸く工業デザイナー志望を許されたものの、武蔵野美術大学の夏期講習を受けただけで、高校には美術教科が無かったので、何もせずノンビリしていた。呑気なものだった。勿論、同展は知らなかった。
造形大の入試は美大の中では一番早く、八王子の校舎が完成してなかったので、桑沢デザイン研究所で行われた。
私は板橋区に住んでいて、もっばら繁華街とかデパートでの買い物は池袋ばかり。恥ずかしながら新宿から南に行ったことがなかった。
原宿駅で降りて歩いて行くと、右手に明治神宮、左手に代々木屋内競技場が見えた。丹下健三設計になる建築デザインは写真で見るのと大違いで、本当に圧倒された。試験そっちのけで、窓の外に迫る代々木競技場ばかりを見ていた。
面接はさらに、競技場が良く見える部屋で行われ、丸顔の勝井先生と、美術評論家の先生2名から質問を受けた。他の受験生と比べたらデザインの事は殆ど知識が無い状態で、よくも合格出来たものだと思う。振り返って、私の人生では宝クジに当たったような幸運だと思っている。
この時のイメージがあるから、同期生達はどこか私を小馬鹿にし続け、私はされ続けた。が、今は彼等の妬みの対象であり、卒業して何をするべきかを実行し、人生、最後に何を為すべきかを理解している唯一無二の存在だと自覚している。
勝井三雄。
賞という賞は殆ど受賞し、勲章の類いも、、。
しかし、氏はグループを形成しなかったので、どこか孤高の雰囲気がある。仲間外れにされている?とも感じさせれる事があり、特に権力から一定の距離を保って活動して来た潔さはとても立派だと思う。半世紀以上も枠組みが変わらず、権威団体には同じ人がが居座り続けている。そんな現況を最も憂いていたのは勝井三雄先生だったのではないか。文章として残されているのか、私は注目している。


岡倉天心・柳 宗悦・三原昌平



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