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「千利休」

千利休と侘び茶(1522年-1591年)

中世において茶会は多くの人に影響を与えた集いだった。公家社会から武家社会に移行すると、それまでの豪華絢爛な茶会から、次第に質素な茶会が唱えられ、その中心人物だった武野紹鴎に師事した利休は、やがて織田信長に仕えることになる。しかし、その信長が本能寺の変で亡くなると、今度は豊臣秀吉に仕えることになるが、今日知られている利休像は、それから皮肉にも秀吉から切腹を言い渡される十年間に培ったもので、非常に短期間に「侘び茶」を完成させていることに注目したい。
高価な唐物(中国製)や高麗物(朝鮮半島製)を使った流れから、「見立て」という発想に代表される簡素を尊いものとする茶会は空間としての茶室や茶室建築、お点前を中心として使われる様々な用品(茶碗、茶筅、夏目、茶釜、蓋置き、柄杓などなど)に至るまで徹底され、そこに出来上がった世界は四百年も先取りされたモダニズムデザインのような趣があることは、世界的な視点からも驚くべきことである。
装飾を重要視する欧州文化においては、モダニズムデザインの基本となるシンプルな形の大切さを発見するのは二十世紀に入ってからで、ドイツ工作連盟からバウハウス誕生の中に、建築や工業製品から装飾を省く様式が定着する。
その数百年も前にシンプルな形の美しさに到達した利休を動かしたものは一体何だったのだろう。
それは紛れもなく禅だったとされる。師匠となった武野紹鴎に至る侘び茶の求道者はいずれも禅宗と繋がっており、利休もまた禅僧などと深い交流があったことが知られている。
禅は坐禅で知られているようにルーツは達磨である。それは無の境地を求めた修行であり、中国を経由して禅宗として日本に広まった。坐禅を組んでいる姿はまさに無の境地を求めている状態、ということになる。
無は有の反対語ではなく、むしろ様々なものの存在を否定することによって得られる精神修行と考えると理解が早い。人間の欲望。食欲、性欲、独占欲、名誉欲、支配欲などの様々な虚栄心や欲。これは勿論否定され、認めない。となると自我も否定され、自分の存在も認めないことに繋がる。そして、自分を構成している様々なものも否定される。それらはどんどん拡大され、住まいから身の回り、衣服にいたるまで広がって行く。
これは禁欲状態から離れ、根源的に自分自身と周囲に存在している物を厳格に捉え直す道に通じることになり、侘び茶という徹底して無駄が省かれ、無駄な形状が省かれた姿に結晶していったのではないだろうか。
そうしたことを利休自身が書き記していた訳ではないので、後世の弟子達がそれを解釈して茶道として伝えられているのが現代の侘び茶である。したがって、侘び茶という呼称も十七世紀に入ってからのもので、利休自身は茶の湯とか数寄茶と呼んでいたとされるのが一般的な理解である。
以上のように利休が完成させた侘び茶は禅という宗教が密接に関係していた結果、世界の歴史の中で最も早く現代のデザインに通じる形の哲学に到達していたという意味では、同じくルネサンスのミケランジェロやダヴィンチなどの功績に勝るとも劣らないものだったと言える。
そして、ルネサンスも宗教との関係抜きで考えられなかったように、その反対側に位置する東洋においても別の宗教との関連があったということも興味深いことである。
そして、それらが地動説が理解され、大航海時代という歴史的な背景抜きに成り立たなかった点においても、なぜか歴史的な宿命のようなものを感じる。




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