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「シャパラル」

シャパラルのレーシングカー

ジム・ホール(1935年-)ほど痛快な人生をおくれた人を探すのは難しいだろう。
両親を飛行機事故で亡くし、家業の石油採掘業を継いで、その裕福な環境下で自らレーサーを兼ねながら次々と革新的なレーシングカーを開発、その影響は世界の名だたる有名スポーツメーカーを例外なくおよび、実質的に僅か十数年の活動で幕を閉じた歴史はあまりにも偉大である。
カルフォルニア工科大学を卒業して道楽ではじめてカーレース。最初のころはヨーロッパのスポーツカーを購入して参戦していたが、一九六一年、ついにエンジニア魂に火がつき、シャパラル1を完成させる。さらに翌年には豊かな経済力で専用のテストコースを要したファクトリーを立ち上げ、シャパラル・カーズ社を作ってしまう。
ジム・ホールの考え方の特徴はレーシングカーのボディをより合理的に捉えようとした部分にあり、当時としては新しい素材だったFRPの特性をよく理解したものだった。FRPはプラスチックにガラス繊維を積層し、金属以上の強度を生む複合素材である。大掛かりな型を必要としないため、一品製作にも向いており、ジム・ホールはそのことを熟知していた。
こうして改良に改良を重ねた1965年、セブリング12時間耐久レースにおいて、有名スポーツカーに混じった中で走行し、ついに優勝する快挙を成し遂げる。そして、レース界において歴史的な1966年がやって来る。
勢いを掴んだシャパラルはヨーロッパのレースにも参戦、ニュルブルクリンク1000kmxレースでも優勝して眼中外だったアメリカのワースクに久しぶりの注目が集まる。

そして、その秋、今度は北米レースで有名なCan-Amレースに観衆の度肝を抜く巨大なウイングをリアに有した2Eで挑み、二回目のレースで優勝してしまう。さらに翌年の1967年には有名なル・マンに登場、そうそうたる名門レーシングカーの中にあって予選で2位(レース結果はリタイア)に入り、そのレーシングマシンとしてのウイングの考え方は世界中の自動車メーカーに疾風のごとくに広まることになる。
その後2Hという失敗作を経て、シャパラルは自動車の歴史にまたしても衝撃的な一ページを刻むマシンを開発する。それが2Jである。

2Eのウイングの発想は、マシンが高速になると浮力が発生するため、空気抵抗を減らすだけでなく、しっかりとタイヤが地面に設置して走行安定性を高めるものだったが、そのダウンフォースを得るために、何と走行用エンジンとは別に、マシン下部の空気を強制的に外部に輩出するというアイデアが2Jだった。
ウイングという発想をレース界にもたらして僅か5年、シャパラルは再び全世界の自動車メーカーから注目されることになった。ドライバーも有名レーサーを担当させることが決まり、そのレース結果が待たれる時期、余分なエンジンを搭載していることが規定違反と見なされ、ジム・ホールはレースからの撤退を決める。
自動車の性能向上のために世界中でレースが開催され、メーカーと観客という関係だけでなく、あらゆる角度から大きな経済の渦と化した中、ほぼ個人資産をベースにジム・ホールという一人の個性豊かな若者が巨大な影響をこの業界にもたらしたという意味で、これほど物語性に溢れた事例も珍しい。しかも、あれから何十年経っただろう。シャパラル2Jの発想を超えたレーシングカーは見当たらない。




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