.



「VWビートルとゴルフ」



VWビートルとゴルフ

1931年、ダイムラー・ベンツを退社してドイツのシュトガルトに事務所を構えたフェルディナント・ポルシェは2年後にナチスの党首として首相の座についたヒットラーが描いた高速道路アウトバーンと共に提唱された国民車を設計するように依頼される。

その条件は時速百キロメートルで連続走行が可能で、平均的家族構成の大人2人と子供3人が乗れ、100kmを7リットルのガソリンで走破出来ることなど上げられていた。さらに、空冷エンジンで、車体が流線型で、価格が1,000マルク以下であることが付け加えられた夢のような構想だった。
この依頼から4年後の一九三八年、ついに最終試作車VW38型が完成し、ヒットラーは世界に向けて大々的に発表してみせた。(空冷水平対抗4気筒1,200cc全長4,070全幅1,540全高1,500重量730kg)
ところが、翌年の一九三九年、ナチスドイツはポーランドに侵攻、イギリスとフランスから宣戦布告されて第二次世界大戦に突入、全ての国民車構想の実施は中断されてしまう。
一九四五年、ようやくドイツの敗北によって戦争が終わると、何とその年に内に千台以上のビートルが生産され、その後の自動車の歴史に画期的な成果を刻むことになる。
ここに至るにはもう一つの奇跡があり、それはソ連を含む連合国側がドイツの知的資産を精査して、場合によっては略奪していった中で、ビートルの設計があまりにも特異だったため無価値と判断され、国外にその権利が移されずに済んだことがある。
こうして、人類史上、稀にみる残虐な政治統制を行ったヒットラーによって生み出された常識破りの国民車はドイツ国内だけに止まらず、世界的なベストセラー・カーとして君臨し、一般大衆向けの自動車としてお手本のような存在に登りつめることになる。
しかし、五十年代こそ破竹の勢いだったものの、自動車の技術的な発展は著しく、RR(リアエンジン・リアドライブ)方式のドライビングの安定性が疑問視されはじめ、特にアメリカ市場における改良を求める要望が根強く、ついに全く正反対のエンジン形式を模索し、(一時期はミッドシップ車も試作された)1,500万台という記録的な生産台数を達成して、FF(フロントエンジン・フロントドライブ)形式の新型車ゴルフにVWの中心車種の役目を譲ることになる。(水冷直列4気筒1,500cc全長3,725全幅1,610全高1,410)

ゴルフは全長を大幅に短くされた割には室内が広く、もちろんフェンダーはボディと一体となり、徹底して合理的に考えられたものとして、これまたビートルに匹敵する影響を世界中に放っている。デザインを担当したのはジョルジェット・ジョージアロー(イタルデザイン)だったが、その簡潔な造形の中に新しいファミリーカー像を高度な次元で達成したものとして高く評価された。
ビートルとゴルフはこのように正反対のクルマとなったが、もう一つ重要なことを指摘しておかなければならない。それはモデルチェンジについてである。基本設計が完成してから三十年以上も生産され、本国で終了した後もブラジルやメキシコで生産されたように、モデルを変えないという考え方と、技術の進歩や需要の内容によってモデルチェンジを繰り返すゴルフは新旧交代だけでなく、優れたものを生産する考え方の違いをも浮き彫りにしていると言える。日本のように平均4年からすると約8年とスパンは長いが、新しい良さを持っていると同時に、初代の良さを失いつつある、という意見があることも確かである。




2019 Syohei mihara design studio.All right reserved.