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「Raymond Loewy」

レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy1893-1986年)

1951年に出版された著書「口紅から機関車まで」はあまりにも有名だ。
しかし、この本の原題は「NEVER LEAVE WELL ENOUGH ALONE」、つまり、「妥協しないで徹底的にやれ」
(もっと良くなるはずだ)だった。

パリに生まれ、国立パリ大学の工学部に入学したのは1911年。その後、1914年から四年間、第一次世界大戦に従軍、フランス軍大尉となるも、翌年にはアメリカに渡り、アール・デコデザイナーとしてフランスの軍人が大活躍していると新聞に報じられる。
ニューヨークに事務所を開設した後、工業デザインに力を注ぎ、それは機械のカバーリング・デザインの有効性を発揮して成功を納め、アメリカで最初にインダストリアルデザインの重要性をアピールした。
契約をするクライアンツは様々な業種に広がり、中でも1934年にペンシルベニア鉄道の電気機関車のデザインに流線型(ストリーム・ライン)を取り入れ、これは風洞実験の結果だったが、そのモチーフを鉛筆削りにまで応用して特許を取得するなど、ローウィと流線型のイメージは一体のものとなった。
企業から依頼がくる前に考案し、特許(意匠登録)を済ませ、後で提案するのがローウィの戦術だった。
第一次世界大戦が終結し、アメリカの繁栄は頂点に達し、同時に消費社会の正当派デザイナーとしてローウィの人気も最高潮となり、各メディアがこぞって取り上げた。
そして、一九五一年に来日、150万円のデザイン料で話題を集めたタバコ「ピース」のデザインをする。現在のお金に換算すると五千万円ほどに値するが、この神話は長いこと日本中を駆け巡った。
六十年代に入ると、ややヨーロッパ調のスチュワード・ベーカーの「アヴンティ」や、プラスチック家具などょを手掛け、70年代の「シェル」石油のための統一デザインというビック・ワークを最後に、晩年はNASAなど゜の理想主義的デザインに回帰して終わっている。

ローウィの仕事を振り返ってみると、こうした数々のデザインも注目されるところだが、最も特異な印象を持つのは六十年代半ばには「レイモンド・ローウィ」事務所の業務案内のパンフレットだろう。それはインダストリアル・デザインだけでなく、グラフィックデザインから建築、イベント、パッケージ、市場調査、都市設計、などに混じって、何とCI(コーポレートアイデンティティ)作成業務まで紹介されている。
おそらく、全世界でこれだけのデザイン業務の間口を、これだけ深い社会的な理解のもとに紐解いて見せているデザイン業は皆無だったはずで、その意味で、このパンフレットこそ、ローウィを表現した代表作のように見える。




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