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「Leica」
ライカの果たした功績
●ライカA
エルンスト・ライツ社の社員だったオスカー・バルナックは第一次世界大戦前の1914年に35ミリ映画フィルムを切って二駒分の撮影が出来るカメラを試作していた。(ウル・ライカ)
これを二代目の経営者が大戦後に改良を命じて開発に着手し、1925年にライカAとして発売した。
従来の乾板を使った平面のフィルムからロール・フィルムに移行した画期的なカメラだったが、フィルム面が小さいため様々な工夫もされ、その一つが高性能なレンズの開発要請だった。これ以降、カメラのレンズは非常に重要なものとなり、七年後の一九三二年に発売された距離計を搭載したll型の交換レンズ群から、その存在は決定的なものとなった。
それらは、カメラ本体とは別にエマールやズミクロン、ヘクトールといった名作レンズを誕生させ、カメラ業界に大きな影響を与える。
さらにライカはll型からlll型に発展してレンズや露出計に加えてアクセサリーの広がりが一大文化圏を形成、他の追随を許さない圧倒的な存在となって行く。
また、その仕上がりや金属の工作の精密さはドイツ工業製品の在り方を代表するかように無駄や装飾を排除した美しさを築き上げ、日本をはじめとするカメラメーカーはコピーライカメーカーと酷評されることに甘んじなければならない始末だった。

それは第二次大戦が終わってlll型がlllf型に進化した頃を頂点に、次第に形成が日本製に傾いて来る。
そして、これまでのバルナック型ライカの欠点を洗い直し、万難を排してデビューさせたのが1954年に発表したM3だった。高価なスポーツカー、場合によっては家一軒が建つくらいの価格は変えられなかったものの、まるでこれまでのライカがクラシックに見えるほどの改良、新設計が施されていた。
これはやがて1967年に発売されたM4で一つの完成を見せ、それ以降、このカメラの美しさを超える製品は存在していない。
その地位
ところが、このM3とM4の間に劇的なことが起っていた。
それはドイツ同様、大戦に敗戦して勢いを増した日本のカメラメーカーがM3を分析して、あまりにも高度だったため追随することを諦め、距離計カメラから一眼レフにシフトチェンジしたのである。こちらの方が、シャッターを切る瞬間にプリズムに映像を送るミラーを跳ね上げる機構だけが複雑なだけで、見たままを写せることや、レンズを通して露出を決定するメカニズムにおいては優位となり、一気にライカは苦境に立たせられ、逆に日本のカメラー業界は世界を席巻し、オートフォーカス時代からデジタルカメラ時代とその地位を揺るぎないものにしている。
それ以降、日本の企業が協力してライカ・ブランドを繋ぎとめているが、ここで指摘しておきたいことがある。
それはライカ・ファン以上に熱気を帯びた存在が日本のカメラメーカーには無いという事実である。その理由は、今日においても圧倒的に美しい仕上がりであることに尽きることで、大量生産にひた走って来た国産カメラがなし得なかった部分である。それが故に古いライカは中古でなく、骨董同然の扱いとなっていて、その部分においては世界で最も存在感のあるカメラであり続けている。



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