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「森正洋とG型醤油差し」


森正洋とG型醤油差し(1958年)
なぜにこの醤油差しが話題になるのか、そこには大きな理由がある。
この醤油差しよりも優れた製品やデザインは存在するかも知れない。しかし、このG型醤油差しの果たした役割ら及ぶものを見つけることは難しいだろう。
森正洋(1927-2005年)の手掛けたデザインは膨大である。毎年途切れることなく新製品が登場した。その一つ一つがプロダクトデザインの作品として重みがある中で、とりわけこのデザインには歴史的な計り知れない重みがあると言って良い。
森は終戦の年の一九四五年、佐賀県の有田工業高校の図案科を卒業、陶芸作家である松本佩山に師事した後に上京し、多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)工芸図案科を卒業、出版社勤務を経て一九五六年長崎窯業指導所のデザイン室に籍を置いた後の一九五六年に白山陶器に入社している。G型醤油差しは、その僅か二年後に誕生した。
これは確認出来ていないが、森自身が執筆している「日本の近代デザイン運動史」(工芸財団編集)の陶器デザインには1958年にフィンランドのカイ・フランクが来日し講演、「大変に有意義だった」と記している。そのページにはG型醤油差しの写真が掲載されていて、「しょう油差し(1960)」とある。実際には、このデザインは1958年で確定しているようなものなので、その二年間は邪推の域を出ない。しかし、カイ・フランクの講演を聞いてデザインに着手した可能性は残されている。
そのことより、少なくとも森自身の思いとして絵柄が入っていない焼き物は完成品とされないことに相当な抵抗感があり、入社して間もなくその機会を伺っていたことは間違いないだろう。
東京の銀座に松屋デパートがあり、そこには五十年代に入って直ぐに結成された日本デザインコミッティが選定したグッドデザインが販売されていた。当時のデバートは商品販売の檜舞台のような存在であった上に、銀座の真ん中にある松屋は格好の標的だった。
しかし、このグッドデザイン・コーナーと称された売り場は売りたくても選定されて降りてくる商品に恵まれず、実際は開店休業に等しい状態だった。
そこに、森から持ち込まれたものがG型醤油差しで、「商品として作ったら販売する」という確約を得て僅か二十名程度だった白山陶器は商品化を決定する。何とも凄まじい情熱としか言いようがない。
デザインの良いものを広げたいとする啓蒙活動のために結成された日本デザインコミッティと、その姿勢に共鳴した松屋デパート。そして、そこを拠点と考えた森正洋。この三者がぶつかり合ってG型醤油差しは現実のものとなった。
何かを犠牲にしたようなモダン・デザインではなく、素直に機能を分析して陶磁器として形にされたG型醤油差しは他の素材では作れない形をしている。他にも名作は存在するが、隣に置いて比較してしまうとっねどうしてもG型醤油差しの仕上がりの確かさに軍配が上がってしまう。パッと見だけでは分からない、ストーリー性に溢れ、森正洋のデザインに対する確かな姿勢を具現化した代表作であり続けている。



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