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「インテリアデザイナー倉俣史朗」


倉俣史朗(1934年-1991年)
インテリアデザイナーの倉俣史朗の仕事ぶりは、それまでの室内装飾業から出発した内装業の範疇 から見ると驚くほど芸術的である。このことの印象が先に来る。そして、定まったデザインの形を 持たずに、常に新しい素材に挑み続けた姿勢は他のデザイナーが「追随不可能」と思わせてしまう ほどの中身の濃さを誇っている。 しかし、それを可能とした仕組みを作り上げた倉俣スタイルを解明せずに、その行為や成果を理解 することは難しい。 まず、1965年に設立したクラマタデザイン事務所の隣室には、倉俣のデザインした全てのものを製 作、施行するイシマル (代表・石丸隆夫)という小さな会社があった。倉俣の施工会社というより、 氏を影で支える黒子、というのが正解だろう。 初期においては「図面無しデザイン」とか、「ラフスケッチ」だけのデザイン案を良しとした時代 もあったそうで、、その意味ではイシマルとのコラボレーションという表現が正しいきがする。 また、倉俣には絶大なる製作協力者が何人かいて、その一人が金属加工(というか、工芸に近い)を 得てとするA氏である。特に美しいステンレス工作を商業施設に持ち込むことが出来た功労者であ る。 もう一人、影で支えたのがガラス加工のM氏である。まさに邪道とも言えるガラス加工も含めて、 ガラスをまるで宝石や美術工芸品の域まで、商空間で到達して見せた達人だった。 つまり、浦島太郎の鬼退治に桃太郎が色々な動物を家来に従えて行ったように、倉俣はそうした業 者を心身ともに取り込み、新しいインテリアデザイン冒険の旅に旅立ったのだった。 だから、クラマタ事務所でコスト計算が先行したことは皆無だったはずで、極端に言えば施主も施 工業者も協力製作者も、金に糸目を付けず、とにかく「作ってしまう」ことが大事だった。 この一連の派生として椅子やインテリア用品のプロダクトデザインが誕生した。これらも、全てそ うした趣旨なので、ほとんどのものが大量生産に向かないし、場合によっては耐久性に疑問がある 場合も含めて、デザインした現場に納めることの出来る短期間の製作が条件になっている。座りや すく、リーズナブルで、耐用年数が長い、そして量産しやすいデザインとは無縁である。 むしろ、そうしたこととかけ離れた価値観や存在意義でデザインされたことが、一連の倉俣デザイ ンの価値を高めている。どの施工業者も、どの生産者も喜んで製作し、協力するデザインとは反対 側に位置していたことは間違いない、なぜならば、いずれも経験したことのない作りであり、しか も短期間の納期だったからで、倉俣を理解し、場合によってはその一連のデザインに惚れ込み、尊 敬していなかったら、とても一緒に仕事が出来なかったろう。 なぜその挑戦を現実のものにすることが出来るのか。その仕組みの解明から倉俣の仕事は始まって いる。 1956年桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科卒業。倉俣史朗は猛烈な読書家だった。

「倉俣史朗読本」関康子著
若い人が倉俣史朗を研究する上で、最もおすすめ出来る本がこれ。 内容はインタビューが中心なので、発言者の中には「?」という 箇所があるが、最後に登場する横尾忠則さんの話とか、大いに楽し めるし、意外な真実の発見も潜んでいる。



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