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実際にあった話「ネオツガル事件」現在も進行中。プッ
(1)事実を知った最初の出来事

この話の大きな発端は知人のデザイナーから「あなたのデザインした津軽塗の作品が
都内のホテルの画廊で見知らぬ人の「個展」として展示されている」というものだっ
た。私は、その事実を知らないと告げると、開催していたのは工房の代表者である職
人だった。

(2)全容を教えてくれた見知らぬ人
2006年6月16日、私は東京はビックサイトで久しぶりに搬入作業をしていた。
同じ業界の人達とも20年ぶりに再会した人などと立ち話を楽しんでいた。
作業が終わりかけた頃、私は面識がない、忘れてしまったのか、とにかく知らない人
から声をかけられた。
「三原昌平さんですよね、青森県の津軽塗の問題はどうなっているのですか?」、正
直「エッ?何のことでしょう?」という感じだった。僅か10分程度の会話だったが、
色々なことを教えてもらい、しかし、まったく半信半疑で心に留めておいた。
それから7年後、人間不信に陥るような新しく知る事実が次々と確認され、知らなか
った自分が恥ずかしかったと同時に「人」の恐ろしさを痛感した。
また、世の中には、そうした真実を聡明な目で捉えて正そうとする素晴らしい「人」
も存在するものだと、本当に感謝の気持ちで一杯になった。後世の人達に、こうした
事例を明らかにすることによって他山の石としてもらいたいと願っている。
世の中は簡単ではない。特に立場の弱いデザイナーは深刻に受け止めてほしい。


驚くべき短絡的「改竄、ねつ造、功績の矮小化」記事

漆のデザインの経緯については別項目で書いた通り。私の功績は揺るぎないと思う。

改めて書くと、漆のデザインへの取組みの概要はこうだ。
1979年に秋田県の川連漆器(冨貴工芸)の仕事で注目を集め、紆余曲折あったものの、
1986年から3年前に個展のために協力いただいた漆器メーカーの長男が設立した工房
と共同出資による開発、発表活動を行った。新しいコンセプトは勿論、工房のプロモ
ーションも手掛け、私のデザイン以外からの受注に繋がっている。古臭く、大半を地
元で消費されていた泥臭い津軽塗は一変し、多くのメディアで紹介された。
デザイン開発なんて、相互信頼が前提だ。相手の能力を信じ、共に新しいチャレンジ
に挑む真摯な気持ちがなければ最初からやる意味がない。
これから書かれた内容は私だけでなく、事実を知る第三者にとっても驚くべき内容で
背信行為から事実の改竄、ねつ造、または私の功績の矮小化物語りである。


ところが、実際は裏で手を回し、別のデザイナーを連れて行ったり、職人を主役に
据えたデレビの特集まで出現する始末だった。
実際は私が立案し、共同出資でスタートしたものを、あたかも現地が動き出して、
私は、ただ外観デザインを頼まれたように装っていた驚くべき改竄。
その象徴が、ここに上げた紹介記事ある。私が、この記事を知ったのは10年も、
20年も経過からで、「まさか?」のことに驚いたし、お世話になった関係者にも
コピーをお送りしてご確認いただいた次第である。
2006年の日経デザインの記事ある。松屋銀座デパートのデザインギャラリーに
おける日本デザインコミッティーメンバーの個展を紹介している。
画像は他の業者に失礼なのでボカしてあるが、問題の「津軽塗」の製作は游工房と
ある。あたかも、長年、津軽塗開発の実績があるかのような事を、これまた私が手
掛けた工房名にしてある。


津軽塗の全容は1979年のデータ(伝統的工芸品産業振興協会)では企業数155、従業
者数660で、倒産した会社の長男とはいえ、世に知られた実績も資金力もない小さな
工房に、なぜ多くのデザイナーや押し寄せたというストーリーを作ろうとするのか、
加えて、後で聞けば、あたかも関係者であるがごとき装い、プロデュースをしたよ
うに振る舞っていた人まで複数人いて、全員、私の知人だったという驚きの事実。さ
らに、わざわざ遠方から弘前の工房まで訪問して、彼等をそそのかすようなアドバイ
スまでしていた!この人物も私からボランティアで仕事をしてもらっていた人で、私
達の業界では名前を上げなくても、「そこまでやる」のは一人しかいないので普通に
分かってしまうと思う。
(※2006年の津軽塗企業数129、従業者数275名。)


職人がデザイナー(三原)の作品を海外に持ち出して個展をやっていたぁ!!(爆)

上の4枚のページは、上記の記事より12年も遡る1994年の特集記事である。
私が関連した記事は右下のページのみだが、専門家ならばデザイン力は一目瞭然だ
と思う。
記事は実に巧妙で、良く表現したとしても影響を受けた地元グループの記事を先に
取り上げ、時間軸が印象に残らないように書かれている。「三原が弘前市にやって
来て、革新的活動を行った。地元も追随して色々な活動が見られる」と事実を書け
ない。
○工房のことに関しても三原は「精神的な支え」の存在としてしてあり、新しい考
案者とは解説されていない。○工房の○○○○氏が海外で個展をやって褒められた?
デザイナーの考案したものを海外に持ち出して、職人の作品であるかのようにして
しまったのは犯罪ではないか。
序でに書くと、このページに○○氏の作品は一点も掲載されていない。出せるはず
がない。三原の作品だから!!!
三原が250万円を出資した共同プロジェクトであったことなど、自分達に都合が
悪いことは伏せられ、三原がどれだけプロモーションや販促、広報に貢献して来た
かなど一切除外されている。恩をあだで返す、驚くべき行動、なのだった。


2006年日経デザイン記事(ここでは←印以外はあえてボケ写真としている。)

この一連の改竄・ねつ造事件を一つだけで象徴するとしたら、この記事になるだろう。
これはある有名デザイナーが日本デザインコミッティーの運営するデザインギャラリー
で個展をしたという日経デザイン誌の記事である。幾つかの事例の中にやってもいない
○工房が作った製品(この個展のためだけに製作)が掲載されているという笑話である。
デザイン振興のために集まった(?)有志が、本来であればホストとして、私をゲスト
に招いて発表させるべき所を、あたかも自分の功績のごとく正当化するおぞましい行為
と言わざるを得ない。このパイプ役となった人物は上記の人物と同一と思われる。耕し
もせず、みせかけの功績を公の、それも権威ある場所で行われたことは残念でならない。

※この件は、事務局にも2014年に通知済みであり、回答がなかったのでここに掲載する。

※また、一連の騒動について手紙やメール、FAX原稿は全て保管されている。

「津軽塗」望月好夫著(理工学社)2000年出版 著者は私が携わっていた当時、青森県工業試験場の場長で1993年に定年退職されている。 私が弘前市を初めて訪問した1984年から、熟知されているし、東京での最初の発表会にも ご足労いただいている。なのに、この本の内容も時間軸をあたかも地元の有志が新しい試 みをしたごとく書かれていて、私のことは地元工房と組んだデザイナー名でしか紹介され ていない。他所者の功績を認めたくない裁量の狭さが露呈していると言わざるをえない。 前述の記事も、結局は同じことで、似たことを始めて、同じ場所で発表。その事実は本に しようが、専門誌で書き立てようが変えようがない。


NEO TSUGARUの一連は、確かに、三原から依頼され 僕が撮影をして 私の事務所、Helico(有)宛てに、三原昌平から撮影料が支払われました。 伝統技法を現代デザインに、かくも美しく、しかも実用に蘇らせた例として瞠目し、 その後、五十嵐威暢氏と担当していた月刊『室内』の表紙(1981年1月〜1999年12月号) の表紙に五十嵐と共に山本夏彦さんに推し、 1992年2月号 446号の『室内』誌の表紙を飾り、三原昌平の活動は、デザイン 界からも高く評価されました。 それは、今でも鮮明に記憶しています。 発想者のオリジナリティーや言葉や仕事は、正しく語り継がれてデザイン界の地層とし て歴史が形成されます。 あれから、27年経ちますか、一週間くらい前のことのようです。 藤塚光政 ※追記、上記の出版物に無断で、ノークレジット、または故意に撮影者を偽って掲載さ れている。事前に了解を得るとか本の存在を告知、贈呈などは一切なかった。(三原) ※続編→「ネオツガル」に群がった人々!(乞うご期待!!!)何ともおぞましい。  (ここの登場人物は、国井喜太郎産業工芸賞受賞者が4人もいる!いや、5人か?!)




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