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グループ展のこと
グループ展

結論から書くと、グループ展を企画・運営出来る人は本当に限られていた。工業デザイン関連
では、私の知るところでは照明デザイナーの落合勉さんだけだったと思う。
「手伝える人」も、運営出来るかどうかと同じことになり、デザイナーにその意識が備わって
いる人は極めて少数。広報とか連絡係など、もっての他で勤まった人はいなかった。
「参加して自分の作品を発表したい」と誰もが思うのに、発表出来る仕組みが理解出来ない。
その意味で、私は参加するだけでしたが東京デザイナーズKAGU(1988)はとても立派
なイベントだったので、とても感謝している。

主なグループ展企画開催
1976−「もう一つのインダストリアルデザイン展」(doデザイン/松屋銀座)
1977−「木で作る生活展」(doデザイン・小田原弥生会/松屋銀座)
1978−「音の出る箱展」(doデザイン・小田原弥生会/池袋西武)
1979−「マイ・お箱展」(doデザイン・小田原弥生会/池袋西武)
1980−「The椅子展」(doデザイン・吉祥寺パルコ)
1999−「マイプロダクト展」(OZONE)
2000−「マイプロダクト展」(OZONE)
2001−「マイプロダクト展」(OZONE)

学生時代、現実、現状を打破する活動として日本においては「実験工房」と「ペルソナ展」が
目にとまった。どちらも神田の古本屋で見つけた記事で、何か目の前が開かれた思いだった。
結局、現状のどんなことに疑問を持ち、どのようなことであるべきかを考えて形を探究する事
こそがデザイナーにとっての根幹だと痛感させられた。
実験工房は終戦後、間もなく結成された芸術家集団で、フランス文学に軸足を置く瀧口修造が
精神的な支柱でジャンルは音楽から造形、文学、写真と様々だった。記録も戦後の混乱期を感
じさせないものが残されていて、2013年から「実験工房展」として全国巡回されている。

「ペルソナ展」は1965年、東京オリンピック開催年の翌年に開催されている。商業デザイ
ンという言葉を廃してより純粋なグラフィックデザインと名乗りながら、さらにデザイナー各
人の個性をアピール、切磋琢磨しようとするもので、粟津潔、宇野亜喜良、勝井三雄、細谷巌
、片山利弘、木村恒久、田中一光、永井一正、横尾忠則、和田誠の11名に亀倉雄策、ポール
デイヴッスらの招待デザイナーを加えた。
今日開催されたとしても充分に耐え得るレベルで、質実共に立派な内容だった。スター主義、
と揶揄する意見も見られるが、産業に飲み込まれないとする士気の流れを作り出した基点とし
て歴史的な功績があった。

産業トップリで企業モラルに染まった工業デザイナーこそ、自分達のアイデンティティを模索
すべきなのに、実験工房やペルソナ展に匹敵する活動は確認出来なかった。半世紀以上も経過
した21世紀に突入した現代においても、そのむ意識はむ希薄である。

卒業して、4年が経過した1975年、グループ活動を行うべくデザイン研究会を立ち上げた。
メンバーはお誘いする相手も分からないので、大学の同期生と前の職場の仲間、7名でスター
トした。場所は東京・渋谷の事務所とした。
目標は一人一人、プロトタイプを製作して発表しようというもので、現代のセルフプロダクト
に相当するものだった。
品目としてはテーブルツ、デスクウェア、照明器具、小家具、クロックなどなったが、素材等
はまちまちで、特定のスタイルを設ける余裕はなく、とにかく「発表」することが前提だった。
互いに批評しあって、仕事の合間に作る行為なので、なかなか大変な労力だったと思う。
グループの名前は「doデザイン研究会」と名付けられ、いよいよ発表の段階を計画すること
になり、私は思い切って松屋デパート銀座店へ向かった。
当事、デザイン展示会は同デパートの7階にあったデザインギャラリーだけで、運営は日本デ
ザインコミッティー。隣接するグッドデザインコーナー(現デザインコレクション)で販売さ
れる商品選定も行っており、敷居は高いものの、ここしか考えつかなかった。
ところが、売り場に出向いて相談すると、そういう話はここでは無理なので、下の階にあるク
ラフトギャラリーに行って見てほしい。ま、あっさりと断られた訳だが、直ぐに階下に行って
話をした。
すると、運営企画をしているのはクラフトデザイン協会で、そちらに打診するように告げられ
た。(今、振り返ると随分とぶっつけ本番でアッチにぶつかり、コッチにぶつかりだった。)
後日、担当者を交えて三者で相談することになり、一旦引き上げることになった。
まず、説明と広報を兼ねて作品の撮影をすることにした。当時はモノクロプリントになり、撮
影は同期生の加茂君に依頼した。
協会の担当は中川斉二さんで、写真を見せる前に「それは面白い活動だ!」と、OKの返事を
いただいた。やっと写真を見せると売り場の担当者も目を見張り、とても興味を示していただ
いた。とても幸運なことだった。
イベントのタイトルは「もう一つのインダストリアルデザイン展」とした。
そして、いよいよ会期(1976年6月)を迎えたが、暗いことが続いた。
まず、売り場の担当者は販売を期待していたらしく、私達のプロトタイプのみの理解が足りて
おらず落胆させてしまった事。
次に、初日に来てくれた同期生には皆、不評で、作品そのものより「工業デザイナーが作品を
発表することに対する否定」意見で、私はポロクソに言われた。お酒を呑みに行く雰囲気では
なかった。

翌日は会場当番だった。
すると、お昼時間に熱心に眺めている中年の男性がいた。簡単な会話が続いた後、それまでの
私の気持ちを振払うような言葉を放って名刺を渡してくれた。「IDもようやくこういう活動
が始まりましたね」、名刺には「朝日新聞」と記されていた。
色々な意味で、自分にとってはターニング・ポイントだった。
批判していた人達も会期後半には賞讃するように転じ、合計20ほどのメディアで紹介された。

また、これをご縁に会場責任者だった中川斉二さんの地元、小田原市の木工職人さん達と交流
が生まれ、この後の3回の発表会は、そのグループ(弥生会)にお世話になった。
※名作も多数誕生した。会場が連日、女子高生で賑わった展示会、デパートの社長が購入され
たもの、販売に結びついたものなど、本当に実利があったが、私の手が最終的な販売フォロー
まで手が回らず少し勿体無い思いも残っている。ただ、次はもっと独自性の高い目標を掲げて
企画立案することにした。

1979年、みんなの意見も含めて「椅子」をテーマとし、メンバーも倍以上の17名として
構えた。
となると、発表会場の問題に直面する。
椅子ムを17格も並べられる場所は思い付かなかった。
数カ所打診した後、反応があったのはパルコだった。
「それだったら、空いているテナントショップの空間を使って見て下さい」ということで、最
終的に渋谷店では叶えられなかったが、吉祥寺店の一角をお借り出来た。ラッキーだった。

撮影は白鳥美雄さんに格安でお願いしたり、会場トークも用意していただき、恐れ多くも永井 一正さん、黒川雅之さんにお話いただいた。 まぁ、終わってみれば、「室内」誌(工作社)では批判されたり、いわゆるガバナンスの問題 が噴出し、グループ展の難しい側面を思い知らされた。 最も残念だったのは、メディアに対して代表者気取りでコメントしたメンバーが複数いたこと で、もうメチャクチャだと思った。労多くして、実りと感謝無しの心境に陥った。 私はdoデザイン研究会を解散した。1980年。 「じゃー、俺達でやろう!」なんて動きがあるはずもなく、自然消滅した。 その後、私はグループ展開催のエネルギーを自身の個展や企業の発表会へ向けた。とても気が楽 になった。 それから10年以上が経過。 バブル経済を経験し、さらにバブル崩壊も経験して、デザイン業界は大不況となった。 こんな中で、東京ガスが1994年に新宿に創立したリビングデザインセンターはとても元気で 幾つかのイベントに参加、またデザインセミナーも2回依頼され、プロダクトデザイナーの自主 的な制作活動を立ち上げることになった。まさに、70年代のdoデザイン研究会の再来である。 プロダクトデザインを活況化させる即効薬はない。 ないどころか、自分達がどのようなデザインを手掛けたがっているのか、自らの問いを活動に繋 げる主旨である。私自身がこれを基本に活動して来たので、この機会を大いに活用してもらいた いと考えた。お手本となるデザイナーにも参加してもらった。
同じように各人がプロトタイプ以上のものを持ち寄って、発表しようというもので、合計3回続 き、若者には話題になったし、ベテランや大学教授まで参加するようになった。 しかし、何を作りたいのかという問いは、結局「デザインコンセプト」が求められ、そのコンセ プトは独自の「思想」に依るものとなるのは自然の道理である。簡単ではないのである。 また同然の疑問として、作った後の流通の問題にも直面する。私は、それについても活路を開い て来たので、その命題に対しても正視してほしかった。 後々、「マイプロダクトに参加するのが夢でした」と、複数の若手プロダクトデザイナーから聞 かされ、随分と反省させられた。 そう。回数を重ねる内に参加希望のデザイナーが増えてっ、気心が知れない人も入って来た。そ のためかと定かでないが、ガバナンスの問題とか、本来の主旨まで無視する参加者がいたりして 、打ち合わせ会合で紛糾する事態まで発生した。 これは「実際あった話」で紹介予定なのでご参照されたい。 (中略) 一人のデザイナーがデザインする意味をどう理解するべきか。デザイン教育で欠落している部分 である。その核心部分に焦点を合わせずに、「プレゼンテーション」を重要視している結末だと 思う。 結果、最終回は中止となり、「プロダクトデザインの思想」展開催へ方角転換されたのだった。 グループ展の難しさエピソード 今までグループ展を企画、運営してきて、如何に運営が難しいかを説明しておきたい。 まず、主宰者には報酬があるわけでなく、雑費は主宰者の負担になる。自分で言い出したことな ので愚痴は言えないが、通信費、交通費、運送費などが積み重なると「塵が積もれば山となる」 の例え通り、相当な金額になる。図録とか出版を伴うと、さらに目に見えない負担は増え、回数 を重ねると雑費の範囲を超えていく。これをそうならないような工夫をしようと思っても、今度 は利益だと誤解されるので難しい。 次に、参加希望者であっても、主宰者が代表であることを嫌がる傾向にあるのがデザイナーの特 質である。単なる参加者より、主宰者の労苦が多いことなど理解しないし、配慮も出来ない。デ ザイナーの社会性は著しく低いと言わざるをえない。 また、参加以上の負担をするつもりは毛頭無い人ばかりである。受け入れられれば「参加して上 げるている」という意識に変化して、針の先ほどの損得勘定が働く。主宰者は辛いのである。

岡倉天心・柳 宗悦・三原昌平



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