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「デザインの検証学」FP(学習研究社)


連載1・デザインの検証学


限定販売のデザイン
「ニッサン・フィガロ」と「オリンパス・エクリュ」という、最も新しい「限定生産販売」商品が発売となった。日産は三回目、オリンパスは二度目という、近頃ブームのようになっている生産・販売方式にはどのような意味があるのだろうか。
物には道理があるとすれば、物作りには数量というものが存在する。現代の物のほとんどが工場でつくられるから、この数量は、工場の道理がそのものである。それは、まず素材によって大いに異なる。木の轆轤ろくろモノや陶磁器、手吹きグラスは500〜1.000個、板金加工や加流ゴム成形品・硬化性樹脂品は500〜2.000、一般可塑性樹脂プラスチックや金属プレス成形は2.000以上、オートメーションのグラスは何万個。これらが、物を作る上での最少の単位、つまり「生産ロット」に当たる。この数量が予め満たされなければ、その商品は世の中に登場することはないのである。
この中で、機械で生産するものは、とにかく徹底的に数量が多いほうがよろしい。いわゆる少品種大量生産型。その代表的なものに有名な「T型フォード」と「VWビートル」がある。ともに、1.500万台から2.000万台以上生産した。(最近ではファミコンの4.000万台以上という数字がある。)数量に対して種類が少ない状態、これが少品種大量生産の世界で、つまり買う側見れば、選択の幅が狭い状態を表している。この逆が、数量に対して種類が多い状態のもので、多品種少量生産と言われている、「多様化社会」が産みだしたような形式がある。
この多様化現象は第一次オイル・ショック後の1970年代半ばから始まったといわれ、日本が最も発達した状態にあるとされている。簡単に言えば「好みの違い」を認識したマーケットを有する産業社会、ということで「感性」や「好き嫌い」「フィーリング」「差別化」、あるいは「セグメンテーション」などの言葉がこの時に誕生している。
振り返ってみると、日産が最初の限定販売モデル「Be-1」を発売したのが1987年。続いて発売された、1989年の「パオ」も人気を博し、この前の年、パイオニアからも初の限定版として「O-Product」が発表になっている。もう、お馴染みのプロデューサー坂井直樹氏が以上の商品の全てに関係していたから、氏のデビューの衝撃度がいかに大きいものであったかが計り知れようというものである。
注目すべきは、日産車がシャーシー部分をマーチのものを流用しているとはいえ、作り自体はオリンパスのカメラも含めて、本格的なオリジナル基本設計がなされている点である。これは、一般的な生産台数(乗用車が約5万台/年・コンパクト・カメラ10万台/年)から考えると極端に少ない、それぞれ2万台で、この少ない台数で採算ベースを割り出す方式こそが「限定販売」のコツなのであろう。
話を前に戻して「多様化」の落とし子、多品種少量生産を他の業界にあたはめて見ると、インスタント・ラーメンや近年のビール業界にも、この嵐が吹き荒れている。特にビールの多品種によって酒屋の商売や店構えがすっかり変わってしまい、効率を落としたために各メーカーは品種の整理に追われたという。また、ある中小のインスタント・ラーメン業社は2.000種類にも膨れ上がって生産管理が難しくなり、一挙に30種類に整理することによって利益が上がったという話もある。つまり、多様化に即した方式といわれる多品種化自体は様々なシステムを駆使しても、結局、作る側・売る側の双方において効率が悪いという結果が出始めているのである。
限定販売はこうした結果を踏まえた、一つの新手の方式と見ることも出来る。しかし、これだけの理由では商品としては成り立たない。では「限定販売」の原則とは何か。これは、まず車やカメラなどの大きい市場を持ったものであること。次に、技術的にある一定の完成度に達していること、そのものに所有欲が発生するものであること、そして、最後にそのスタイルが特異なものに成りえる可能性があることが上げられる。言い方を変えれば「大型」の趣味商品であり、大衆万人を対象に考えることが、売れる商品の絶対的な常套手段としてきた近代の工業生産のメカニズムを根本から覆す、世紀末的な生産商法方式とも見ることも出来る。
興味深いのは、ポルシェやフェラーリのプロトタイプ限定数量生産と比較すると(比較するのもおかしいが)、デザイン面では両社の商品のいずれもがオリジナリティーを押し殺したようなキッチュ的な手法を用いている点である。Be-1=ミニ、パオ=ルノー、フィガロ=フェラーリ、O-Product=プレスカメラ、エクリュ=暗箱カメラ、といった具合である。こうした人々の間に眠っている美学に結び付ける手法こそが、限定販売のリスク低減の切り札なのかも知れない。

※キャプション
FIGARO
1989年のモーターショーで発表されたモデルとは微妙にディテールが異なる。随分とオモチャっぽく見えたプロトタイプが、少し大人びて感じるのは、そうした細かい違いによるものか?全体のデザインはますます大胆さになっているが、これでも「今回は中高年からの注文が多かった」のは不思議である。

Ecru
O-Productは坂井直樹プロデュース・山中俊治デザイン。結構マニアックなデザインで、デザイナーにも人気があった。今回のEcruは女性チームのプロジェクトとあってか、相当に感覚的で甘口、従来のカメラらしさからは完全に抜け切っている点が販売面にどう影響するか、、、。

連載 デザインの検証学


スタルクの造形
P・スタルクの人気沸騰の謎
今、フィリップ・スタルクは、デザイナーとして、国際的に爆発的な人気を呼んでいる。日本においても、様々な話題を集めたアサヒビール吾妻橋ホールで一気に注目を集め、次いでアレッシ社(伊)の「レモン絞り」が例のないヒット商品となって、「スタルク神話」を決定的なものにした。しかし、一方で、その人気の中身自体についてや、「スタルク調」といわれる造形フォルムのコンセプトはどのようなものなのか、謎は深まるばかりなのだ。今回はこの謎の解明について、少しでも迫ってみようと思う。
スタルクは、フランスの建築家であるが、まず、特に日本のID界に1970年代から大きい影響を与えてきたデザイナーを上げると、ベリーニ、ジョージアロー、コラーニ、ソットサス、そしてスタルクと続き、3人が建築家という共通性が浮上する。次いで、ベリーニとジョージアローが正統派的なスタンスだったのに対して、その後のスタルクまでの3人は何れもパラドックス的な異端である。
アメリカン・モダンを中心にしたプロフェショナル・デザインは技術や生産、あるいは商品性との照合一致の原則を前提としている。だから、事の善し悪しは別にして、その最も高揚した文化を築いたアメリカが、そして続いて日本が経済的に発展した訳である。低迷している先進国の英・仏・伊らは、この部分が立ち遅れたことが大きな原因の一つとして指摘されたりもしている。
皮肉なのは、先のデザイナーの内、コラーニを除いては、こうしたデザイン観が根付いていない国々のデザイナーばかりである点を、まず注目をしておく必要があろう。アメリカや日本のデザインは、特に生産性を優先した合理性に一大コンセプトを置いたものだから、家電製品に代表されるように、各メーカーから出される商品デザインは非常に類似してしまっている。これは、種目別で見てもそうだし、長い時間的な傾向で見ても自明である。従って、我が国のデザイン・トレンドの大流は、こうした「作り易い」思想に埋め尽くされて、それに拮抗するだけの思想は芽を摘まれて来た、といっても過言ではなかろう。
スタルク造形の秘密と革新性
これに対抗するようなコラーニの「宇宙には直線がない」、あるいはソットサスのメンフィス活動において唱えられた「工業で製作不可能なものは全てなくなった」という考え方は、スタルクの一連のデザインの流れにも通じている。技術のハウ・ツウを下敷きにした一般のプロフェッショナル・デザインは最初から生産方法が考慮されているから、最後まで考え方は同軸上にあって、問題が発生することは少ない。しかし、この3者のデザインは初めにフォルム自体に意義が込められて、技術との照合を後回しにしているから、これはハッキリ言えば近代デザインに対する反逆行為のようなものなのである。
だから、実際のデザイン作業は詳細な図面が添付されるわけもなく、スケッチやイメージ・モデルによるプレゼンテーションが最大の売り物となって、建築であれば実施設計機関による「解読」作業を、また工業製品であれば、専門のエンジニアとインダストリアル・デザイナーの「デザイン通訳」を経て実現される運びとなる。そこで最も厄介なのは、先に述べた最大のデザイン・コンセプトである造形フォルムに生産性を与え、現実のものとする作業である、と考えられる。
特にスタルクのフォルムは、モダン・デザインが避けて通ってきた「非対称形」、「非回転形」、「不安定」、「非均一」「偏向偏厚」、「不統一」、「自由曲面」といったものを折衷してモチーフ化したものであり、謂わば正統的デザインに対するエフェクト自体に主題があるかのような極端なものばかりである。それだけに、出来上がったものは意表を突いていて、インパクトが強い印象のものとなって私達の目の前に登場することになるが、弱点がないわけではない。
それには作業効率や生産性が低くかったり、リスクが高かったりする問題もあるが、一番の難題は必ずしも技術に裏打ちされていないプロトタイプやスケッチを、いかに原形の持つ意向に添った形で最終的なものに仕上げるか、という点に尽きるだろう。しかし、このことは技術のサポート役になりがちなデザインの認識に一石を投じる役割を果たしていることには違いがなく、また、それにはそれを可能にする、現代の成熟化した技術背景が整っている、と読み取ることも出来よう。

※キャプション
レモン絞り-ALESSI社「JUICY SALIF」
形も奇抜だが、実際の成形も難易度が高かったと想像される。興味深いのは、スタルクが考案したスケッチと微妙に異なる製品のフォルム。技術的な解決への妥協が認められる、と見るのは少し意地悪か?アルミ製。

フック
何の説明も必要としない、スタルク・オブジェ。最小のスタルク空間が広がる。アルミ製。

水切りボール-ALESSI社「MAX LE CHINOS」
スタルクのエスプリが漂うキッチン用品。ユーモラスな中にも格調高いフォルムが魅力。ステンレス製。

連載 デザインの検証学―3


ニュータウンに
何が起こっているか
多摩ニュータウン満20年
最近、福岡に出来た話題の「ネクサス・ワールド」(注1)を見た。博多から電車で約30分、下車して10分ほど歩くと、薄暗いグレーのモルタルで塗られた典型的な「団地」が目の前に現われる。ここを5分ほどで抜けると、アッという間に風景は変わり、まるで高級リゾート・マンションのような「ネクサス・ニュー・タウン」が出現する。この一本の道を隔てた二つのブロックの対比。そこに30年以上の時間的な価値観の流れが読み取れて、興味深いものがあった。
さて、今回の題材の有名な多摩ニュータウンは、1965年にその計画が発表されてから約26年。すでに過密化していた東京の住宅事情を打開すべく、多摩丘陵地帯に建設し始めたもので、入居開始から20年が経過、現在はその中枢機関の開発がほぼ完了しつつある段階である(注2)。この間に、住宅の広さも初期の2DK50m2未満の賃貸形式から、4LDK100m2以上の分譲マンション形式が主流となっとか、普通の街と比較すると公園や緑が多いとか、独特のゴミ処理機能の普及で大変に清潔なゾーンであるとかなど、他の住宅地から見ると理想郷のような面はたくさんある。では、このニュータウンにどのような問題点が潜んでいるのだろうか。
実際住んでみて感じる主なものは、意味不明で複雑な棟の配置、粗末なカラーリング、低俗な建具の装飾採用、必ず発生する駐車場不足問題、「最初だけ」生えている芝生、首を傾げたくなる幼児の遊び場設備の中身、場辺り的に点在する粗末な彫刻アート、風景のためにだけあるような使われないベンチ、形だけが残存している水飲み場、雑然とした樹木の種類等々と、上げれば結構たくさんある。そして何よりも肝心な建築に関しては、その外観は「ネクサス」とは較べるべくもなく、作品的な基準で考えたら、もう完全にお話しにならないのは残念である。
「ケモノ道」発生が語るもの
しかし、こうした設計的なレベルへの疑問は我が国の一般的な建築水準から考えると、極端に良くも悪くもないから、あまり問題にしたくない。ここで考えたいのは、巨大なスペースに、人工的な住宅環境を作るにあたって使われた手法が「デザイン」であったとすれば、計画と実際上にどうした違いをもたらしたか、その形而上と形而下についての検証である。そこで、その結果について考える上で格好の材料と考えられる、丘陵地帯ニュータウンに縦横無尽に渡って張りめぐらされた「道」にスポットを当ててみよう。
多摩ニュータウンの道は、いわゆるアメニティーの概念を積極的に取り入れた、確かに贅沢なものではある。基本的に車道と歩道は分離されていて、そこには一般的に見られる車社会と生活環境の混雑した姿は見当たらない。また、車道と歩道を結ぶ、自転車や車椅子用のスロープも適当と思われる間隔で整備されていたり、広い公園内の立派な遊歩道などを見ていると表面的には素晴らしい。
焦点は、こうした計画された「道」に対して住民がどのような反応を示しているかという部分であり、その有効性についての判定だろう。この観点から浮上してくるのが「使われない道」と、道なき場所に道が出来る「ケモノ道」である。特に後者はニュータウン全域に発生しているもので、全てが意図デザイン的に作られたこの地域の中にあって異様なものとなっている。
発生のメカニズムはいたって単純で、人々が歩きたいルートに道がない場所に必ず出来ている。別の表現をすれば歩行者が設定された道を必ずしもそのままトレースしない現象だと言える。例えば駅などの求心地に対して道が直線的に結び付いていなかったり、故意に遊歩道的なファクターを与えて迂回や蛇行している道、あるいは敷石などのディテールがうまく機能していない箇所等がその温床である。しかも、この「ケモノ道」は、そこに石垣や土手などの大きい障害物がある場合には発生していないから、潜在的に眠っている「ケモノ道」は計り知れないほど多いものと想像される。
現在、多摩ニュータウンはすでに計画の半分の住宅建設が終了しているが、まだまだ需要に供給が追い付かず、依然として分譲の高倍率は続いている。こうした現状で「孫受け設計」がまかり通っていると噂されるデザインをする姿勢に、批判は表面上起こっていない。そんな中、この「ケモノ道」こそが、ここに住む人々の声無き声として、堂々と横たわっている姿はまことに痛快である。

連載4 デザインの検証学

日本の木のクラフト
優れた木のディテール
日本人は木が好きである。日本の文化は何でも木で作ったかのように、木で埋め尽くされている。そこから生まれた技術は建築をはじめ、指し物、轆轤ロクロ物、木彫等などに活用され、世界でも屈指のものとして伝承されている。日本人の木に対する優れた感性は広葉樹のみならず、針葉樹にも美学を見い出している点と、その加工技術の精緻さに大きな特徴を見ることが出来よう。だから、「木のぬくもり」などという曖昧な観念を語る前に、妥協を許さない、研ぎ澄まされた感性と術の部分にこそ日本民族の「木の心」が宿っていると前置きしておきたい。
こうした背景から現在の代表的な木工技術を眺めると丹野則雄氏(北海道・旭川)の一連の作品がすぐに頭に浮かんで来る。氏は今から10年程前に木製のカバン、KIBANですっかり有名になったからファンも随分と多い。その後次々に発表される新作も益々独自の境地を広げ、クラフト界でも一つ頭が抜けた存在だ。その世界は徹底的に木によるディテールを追求したもの。他の素材を介在させない頑固な姿勢が特に光っている。
木のディテール。これは簡単でない。木は癖物で、反ったり、あばれたり、剥がれたり、割れたり、折れたり、狂ったりと悪い結果は全て用意されている。それが木の種類によって全部違うし、使われる場所によっても性質が全く異なるから、作り手はその読みだけに振り回されて疲れてしまう。だから、長年の伝統的な約束事に終止して、意外と斬新なものが生まれないのだ。木工職人が妙に理屈っぽいのもこの性であろうか。
こうした世界で、丹野氏の仕事は常に木に対して挑戦的である。意表を付く用途設定、ミクロ的な寸法の計算下で加工される細部処理、金具に置換されるべき箇所への木のこだわり、多彩な木の種類の折衷。個々がとても斬新で発明的、そして明朗である。こうしたものが一品に込められた姿に接すると思わず溜息が出るほど感動を覚えてしまう。何より腕が確かなのだ。(特に外国人のデザイナーには絶対的な説得力がある。)木の心とエスプリ、そして夢が込められた氏の作品は今後も目が離せない、貴重な存在だ。
注目したい木製蓮華れんげ
さて、話を戻して、もう少し日本人と木を考えるとき、食器と食事スタイルの関係を見逃すわけにはいかない。衆知の通り、日本では食器(椀)を持ち、箸で食べ物を口へ運ぶ。この簡単な行為の中に文化的には意外と奥が深い内容を含んでいる、そういう部分から推論しておきたい。
世界的に見て、食べるスタイルは箸食、カトラリー食、手食の三つに分けられる(注1)。カトラリー、つまりナイフ・フォーク・スプーンを使う文化は西欧型の代表的なものとされるが、その歴史はまだ300年程度で、その前は手食だった。東洋の箸は紀元前300年、中国に生まれているが、それ以前は勿論のこと手食だった。ここで注目すべきは中国・朝鮮と日本の違いである。まず食事に日本では箸だけで食べるの対して、中国と朝鮮では箸と散蓮華(セラミック)、匙さじ(金属)を使う。素材も日本が漆の塗り箸を代表格にしているのに対して、中国では象牙、朝鮮では銀製などの金属となっている。ここが大きいポイントである。
現代の我が国の食生活は多様化され、テーブルには以上の全てが並ぶ。そして、それらに私達は何の疑問も持っていない。「これで良いのか」などと考えるのは野暮かも知れない。が、筆者はここで日本民族の素材感として、蓮華やスプーンも木製が断然優れていると提唱したい。特に私達の舌先や唇の温感や触覚は前述の中国・朝鮮との素材の違いを見ても明かである。筆者自身の経験からもカレーやシチュウを食べるのでさえ、金属のスプーンより木製のスプーン(残念ながら決定版はまだ登場していないと思うが)の方が料理が美味に伝わる。
問題は木製は造作が難しい点だが、ここに素晴らしい蓮華がある。島根県の斐川町で製造する、おかや木芸社のもの。欅ケヤキ製で擦り漆仕上、嫌味のない形は結構熟練した丁寧な手仕事を感じさせるが、価格はとても安い。大きさも中華料理に使う散蓮華から、粥やあん蜜などの匙用まで6種類が揃っている。一見、平凡に見えるが、この背後には脈々と流れる日本の文化を感じさせる佳作である。そして、巨大な一般性を秘められている。

木にはとかく誤解が多く付きまとう。イヤラシイ木目のデコラ化粧板、悪者にされている割り箸問題(注2)、その逆に低俗な木製品でも正当化される一村一品運動商品、そしてこの木製蓮華を見逃して来た点も単なる記号だけの問題ではないだろう。寿司やのカウンターが桧ひのきからステンレスに変わったり、学校給食に出る(これもヒドイ)お椀がアルミ製になる日常性がやってくるような怪奇現象が起きないように、木工クラフトの本来の伝統が続くよう祈りたい。
(注1)●箸食地域→中国本土・台湾・朝鮮半島・日本 ●カトラリー食地域→ヨーロッパ・南北アメリカ大陸・ソ連・オーストラリア ●手食地域→アフリカ・中近東・東南アジア・インド・フィリピン原住民など。手食はあながち原始的ばかりは言えず、食器を口元へ運んだり、道具を使うことを不浄のものとする約束事が多く、やはり一つの崇高な文化である。
(注2)割り箸に使用される割合は、日本全体の木材消費量の0.5%未満。この中に間伐材や建築用の残材が含まれる。批判の的にされた南洋材はさらに低く0.05%以下。ちなみに建築用に約45%、新聞紙に約4%が消費されている。

※写真解説
A・丹野則雄作の楊枝ホルダー。材質はナラ、メープル、ローズ。他にシタン、チーク、カリン、ウォルナットなどのものがある。サイズ・120×16×14ミリ。
B・楊枝ホルダーをオープンしたところ。木製とは思えないメカニカルなデティールが一気に顔を表す。
C・同じく丹野則雄作の名刺入れ。フタを明けると信じられない精緻な工作が見える。木工クラフトの一方の極を示すクライマックスである。
D・(有)おかや木芸の欅けやき製蓮華(商品名は「和のスプーン」)。サイズ・大が1300円、中(商品名は「長寿スプーン」これだけが桑製白木)が1200円、ミニが800円と安価。これ以外に欅製・特大、中、小、ロングタイプがある。

連載 デザインの検証学

中古カメラ
その魅力の理由わけ
中古カメラ店はデザイン博物館
久しぶりに銀座や新宿の中古カメラ店を見学してまわった。例のバブル経済のあおりで、絵画投機ブームと同じ波が切手の世界にまで及んだように、中古カメラ業界でもその嵐の残像状態にあるらしい。とにかく売り物が少ない「玉不足」が続いている様子だ。中古市場は「買い」の状態にあるということか。
中古の世界を正確に言えば「中古」と「骨董」に分けられる。これはクルマもカメラと同じである。前者は古いけれど価値が残っているもので、絶対使えなければならない。それに対して骨董価値は鑑賞用から、単なる貴重価値まで、様々な夢が広がるマニアの世界である。銀座などに集中している中古カメラ店はクルマの中古屋とは違って、その両方を扱っている場合が多い。(また、骨董→投資といった図式は最初の5万円の限定販売カメラを最高12万円もの高値を付けていた。)
今、一般のカメラ店に並ぶ製品は100%国産品である。世界的に見ても90%以上がメイド・イン・ジャパンであり、毎年発表される新製品の数はそれ以上になる情勢が続いている。これは、1960年代初頭から国産カメラが怒涛のごとく欧米のメーカーを震憾させた一つの結末である。それはドイツのカメラを真似し続けていた時代からわずか10年後に過ぎない出来事だったから驚きだ。
それまで、カメラといえば「ライカ」であり、「コンタックス」あるいは「ローライ」だった。メカニズムのみならず、形のディテールまで国産メーカーがコピーしたのは、完全に記号まで一体化した、強力なご本家だったからである。この情勢を変えたのが一眼レフカメラの登場で、これを主流に切り替えた国産メーカーに対してドイツ各社はこの流れに乗り遅れ、その勢力地図は一変してしまう。そして、それから約15年後に現われるAFカメラには何の説明も要らないだろう。
こうした流れが一目で見れるのが中古カメラ店である。「ライカ」「コンタックス」「ローライ」それにアメリカの「コダック」もある。特に圧倒的な存在感があり、質量ともに主役的な位置を確保しているのが「ライカ」である。世界の60%の数が日本に集中しているとされる背景は、とにかく入荷するたびに水が砂に吸い込まれるがごとく売りさばけていく日本人のライカ好きが上げられる。そして、このライカ好き現象にこそ「工業製品」の思想的な核心を浮き彫りにする何かが潜んでいるのである。
カメラの価値観を分けるもの
もう少し店内を観察すると、ライカは基本的に二機種(通称軍艦スタイルと、M3スタイル)に過ぎないのに対して、コダック製品は品種が大変多いことに気付く。これはドイツとアメリカの物作りの違いを示すもので、今日までの自動車のスタイリングにも全く同様な現象が認められる。ドイツは外観を出来るだけ変えずに中身の改良によって製品の向上を計る。アメリカは外観を変えること自体が目的だから、むしろ中身は同じだったりするのである。
日本の工業製品の考え方は、この両方を取り入れて、大胆に新製品を次から次に投入する方式だから10年も経てばガラリと同じメーカーの商品が変わってしまうこともある。極端に言えば、全部が変わってしまうことを至上の概念としていた時代があったほどだし、この体質は今でも変わらない。この残骸はまた見事に中古カメラ店に散らばっているから、これらを一つ一つ注意深く見るのも歴史の勉強になる、チョットした資料館なのである。
こうした日本の業界にあって、「ライカ」に唯一対抗し得る中古市場を形成しているのが「ニコン」である。特に「F」によって1959年にスタートを切った一眼レフのレンズマウントは現在まで基本的に変わらず、新機種が出る度に新しいレンズを購入しなければならない他のメーカーとは一線を画している。これは技術革新の激しい我が国の工業製品の中にあって、簡単なようで大変に困難の伴う快挙なのである。ニコン神話やプロ・カメラマンに絶対的な信頼を得ているのは、この部分に他ならない。
もう一つ「ライカ好き」現象の理由。それは機械対エレクトロニクス、あるいは金属対プラスチックの図式である。これをカメラの操作制御の方式の違いと考えたり、技術革新による製造技術の問題に過ぎないとして扱うのは、いささか軽率なのだ。たしかにそれらの変遷は技術の発展を表している本質があることは認めなければならない。また、AFに代表される「写す」ことの難しさからの解放についても合目的性があろう。しかし、次から次に出されるペラペラのブラスチック製の「新製品」はあまりにも「消費」指向が強すぎるのも事実である。
現在、M型ライカは日産70〜80台の少量を生産し続けている。そこにあるのはマニアには堪らないクラフトマン・シップ手作りの世界。一方、最高峰のカメラを君臨する使命にあるニコンは30年間に「F2」、「F3」と変わって、ついに「F4」にモデルチェンジ、あらゆる先端技術を搭載して称賛を集めてはいる。しかし、いまだに「F」を懐かしむ声が強かったり、巨大に膨れ上がってしまった「F4」の反動からか並行生産されている「F3」の生産量が逆に伸びていたりする現象をどう理解すればよいのか、考えさせられる問題である。

写真解説
※「ニコンF」Nikon神話を決定的なものにしたモデル(写真は露出計付きFTNタイプ)。1959年から1973年まで生産されたロングセラー商品としても有名になった。最新型の「F4」と比較するとコンパクトにしてシンプル、金属的な質感とメカニカルな操作タッチが楽しめる。デザインは亀倉雄策氏が指導したとして話題になった。中古市場ではブラック仕様の美品はクロームより3倍近い値を付けて約20万円という骨董価格になっている。
※「フジHD-S」カメラのヘビーデューティー時代を築いたモデルだが、中古市場では見掛けることが少ない。企画デザインは浜野商品研究所が担当。現在は防水機能に加えてパノラマ撮影が付加されたりしているが、外観は残念ながら改悪に走っている。カメラの進化とは何か、ここでも大いに悩んでしまうのだが、、、。

連載 デザインの検証学6

高級車デザイン
のジレンマ
再び曲がり角に来た
我が国の自動車産業
日本の自動車産業もいつの間にか世界のトップクラスに浮上してもう10年以上が経過。相変らず新車の発表は猛烈で、今年に入ってからもソアラやカローラ、セドリック、シーマ、ビート、シビック等々が大きな話題となり、本誌が出ている頃にはクラウン、ブルーバード、プレリュードなどの人気車種がモデルチェンジされているはずである。
販売面をメーカー別に見るとトヨタは安定した堅調、ニッサンは話題が多いが意外と伸び悩み、三菱はマーケティングの成功で好調、ホンダはF-1やNSXで人気沸騰している割には大苦戦、マツダはボチボチといったところ。
こうした情勢の中、日本の自動車産業は再び曲がり角を迎えようとしている。最初のそれは1970年代前半の排気ガス規制の問題だった。アメリカのマスキー法の起案に始まった、当時としては不可能に近いと言われたこの問題も、結局日本が世界に先駆けてクリア、一時エンジンの性能低下をもたらした面も今日では完璧に解決している。そして、現在直面している問題は「安全対策」と「環境問題」であるとされる。
前者はドアのサイドビームによる補強、衝突時のエアバック装着、あるいは弱いと指摘されていたブレーキの改良といった懸案。後者は再生プラスチックの採用や、廃車時の再生可能なコンポーネンツなどの問題、あるいは低燃費エンジンの開発などであるが、解決のメドはすでにある程度進んでいる。筆者がここでもう一つ取り上げたい課題は高級車の「スタイリング・デザイン」である。
世界的に見て突出して好調な日本車はカー・デザインでもある種のトレンドとなっている。中でも超優等生のトヨタは内外のメーカーにとって最も比較の対象として注目の的であり、次から次と出る金太郎飴のごとくのトヨタ調スタイルは自信にあふれ、深い哲学さえ感じさせる。しかし、セルシオが登場した時、私達にはハッと気付くものがあった。
高級車スタイリング・デザインの壁
ここ数年、自動車の税制が変わったことと、例のバブル経済のあおりで高級車が数多く誕生した。その発端となったのが1988年に登場した初代シーマだった。その後レジェンド、セルシオ、インフィニティー、プレジデント、ディアマンテ、センティアなどと雨後の竹の子のごとく高級車が誕生した。そして、確かにセルシオを先頭に商品性としては世界的に高い評価を得て、改めて日本の自動車製造技術の高さを立証した事も事実ではあった。
しかし、どうにも足が地に着いていない感が強いのがそのスタイリングである。だいたい日本のカー・デザインの根本的な考え方はアメリカに最も影響されて来たから、アメリカ流に次のモデルは前のモデルのイメージを継承しない方式を長年続けた癖が色濃く残っている。だから、アメ車が衰退してヨーロッパ車にお手本を求めてから初めてアイディンティティーの問題に直面することとなったのである。特にメルセデス・ベンツの「変わっても変わらないスタイリング」に対するコンプレックスは高級車に参入して一気に頂点に達する。これはアメリカでは成功したが日本では全く不振だったレジェンドのマイナーチェンジと、今年のフルチェンジに如実に現われている。
メルセデスのあのフロント・マスク、ジャガーの独特のシルエット、BMWの普遍性を追求したように大人の形。これの三車は現在の日本の自動車メーカーにとって代表的な高級車の記号になっている。いや、私達日本人にとっての記号なのだ。従って、今まで登場した国産高級車はいずれもこの内いずれかにモチーフにしている感が強いというのが定説となっている。(インフィニティーだけは独自の境地を開こうとした形跡が見えるが、、。)
特に悩みに悩んでいる様子が見え見えなのがフロント・グリル。メルセデスやBMWは自動車の高速化で前面投影面積が低下、その存続に苦労している(注1)というのに、日本のメーカー垂涎の的が伝統あるメルセデスのお面やBMWのキドニーグリルというのは何とも皮肉ではないか。「チョット、ベンツに似すぎちゃったかナ。じゃぁジヤガーっぽくしてみようか。いやいやマズイなコレ。やりすぎだョ。少しおさえれよ。ま、イイか。」なんて声が聞こえてきそうなのだ。
高級車には伝統が強い力になる。シッカリした車に対する恒久的な思想とそれを実現する技術、そしてそれを表現する造形デザイン。これは高級車が単なる「耐久消費財」以上の何かが求められている問題なのだろう。擬態のようなデザインから抜け出して、国産メーカーなりの伝統を築き上げるにはどのような道程が待っているのか、興味深々である。(注2)

(注1)BMW850iクーペはフロントが極端に低く、例のキドニーグリルはブタの鼻のよう。また、久しぶりに大型モデル・チェンジしたメルセデスSクラスは途中メッキ・モールなしの試作車がスクープされ話題となった。結果はモール部が過去もっとも控えめな形で発表。メルセデスでさえも敢然と踏ん切れない問題であることが証明された。
(注2)伝統を感じさせるフロント・マスクの構築は世界的なメーカーの課題であるようで、例えばボルボが現在のマスクを打ち出したのはまだ10数年前であり、フィアット、ランチアなども同様である。その最高のシンボルは依然としてロールス・ロイス。悪く利用すれば虚栄心や欲望の塊に過ぎない。

※写真解説
今夏モデル・チェンジされたシーマ。初代はセドリックをベースにパッケージングされたものだったが、今回のモデルはほぼ完全にオリジナルに製作されている。グレードはトヨタのセルシオを標的にしているようで、ホイールベースは4815ミリとまったく同値。しかし、コンセプトやスタイルは見事に継承されていて、伝統を作り出す可能性を秘めた第一歩を踏み出した印象が強い。
※写真解説
シーマの少し前に登場した新型セドリックのブロアム系のフロント・マスク。前はシーマの母体となったが、今回は立場が逆転して、かなりそのイメージを取り入れているスタイルだ。しかし、兄弟車のグロリアやグランツーリスモは別の顔をしており、この辺りがニッサン得意の変化球なのか迷いなのか評価がわかれる所。また、同一メーカーとは思えないフィニッシュの悪さも気になる。

連載 デザインの検証学7

VWゴルフの新しい挑戦
出揃ったコンパクトカー
9月にVWゴルフが8年ぶりにモデルチェンジされ、これにトヨタのカローラ(スプリンター)、ホンダのシビック、そしてオペルのアストラ(旧カデット)も加わって、コンパクトカーの横綱大関クラスが期せずして出揃った。それらが、それぞれのお国柄やメーカーの心意気などが反映して、ハッキリと個性が分かれた点は現代の商品の在り方を透視するものとして感慨深いものがある。
こうした種類のクルマはベーシック・カーとも呼ばれ、とにかく大量に売れなければならない宿命を持った車種である。しかし、「ベストセラー・カー」という自然に出来上がった受け皿があるわけもなく、その伝統を受け継ぐだけの商品力を確実に用意すること、これはとても大変な力がいることだ。
まず第7代目になるカローラだが、国内の高級車志向で販売台数を伸ばしているマークll 姉妹にその立場を取って変わられるような情勢だが、依然としてトヨタの、日本の、そして世界を代表するベストセラー・カーの地位を確保ようとする気迫が充分伝わってくる出来栄えだ。カローラの商品としてのまとめの一番のポイントは「乗って恥ずかしくない」(中流意識の満足)という要素だろう。「本格的」な3ボックス・スタイル、「高級車」に見劣りしないデラックスな外観。これは大衆車(トヨタではこの称号をやめコンパクトカーと称している)の基本的な要素である適度な小ささや、価格の安価さと合わせて最も強調されなければならない、とても日本的な側面なのだ。
これに対してシビックは、基本的に初代からハッチバックの2ボックスが基本スタイル。カローラよりはコンパクトカーとしての合理性を売り物にしてきたが、今度のモデルはオール・マイティーなセダンとしての性格を捨てて、若者市場にターゲットを絞った「2+2」的なスポーティー・セダンにコンセプトを大きく振り、前者の需要に対しては新たにフェリオなる商品名を設定した4ドア版を用意している。この辺りは、コンパクト・カーも多様化された、と読めなくもないが、妙に市場に迎合して初代の持っていた明快さが失われて感がなくもない。
新しい車の基本を提示したニュー・ゴルフ
1.4リッターから2.8リッターまで、7種類のエンジンをラインナップに持つニュー・ゴルフは、前述の国産車とは随分違ったテーマを打ち出して来た。それはまさに1991年の今日、クルマを取り巻く世界の情勢が求めている要素、すなわち安全性、エコロジー、リサイクルといった切迫した問題に対して思い切った提案が盛り沢山に詰まっている。この中でその代表的な例を上げると、まず米国の1994年の安全基準をクリアするボディという、まるで高級車にでも施すような設計が随所になされている点。(注1)そして、最も興味深いのは「廃車返還制度」というもので、つまりユーザーが廃車処分をしたい場合にメーカーであるVW社が無料で引き取る保証である。(注2)これはメーカーというものが産みっぱなしで「後はしらないョ」という従来の常識を打ち破る、今世紀の産業を代表するような大改革であり、大事件と認定できるスゴイことなのだ。
もう一つ、筆者がデザイナーとして拍手を贈りたいのはゴルフがコンパクトカーとしてのサイズに対する考え方を今回も継承している点である。特に全高を1425ミリも確保している数値は国産車で言えばプレジデントやシーマといったビックサイズ・カーと同じものであり、これを全長わずか4メートルの車体にあてはめている部分に驚きを感じてしまう。これはアストラよりも15ミリ、カローラより約50ミリ、そしてシビックと比較すると何と75ミリも高いものだ。
この高さを確保したために、今回のゴルフもスマートさとはおよそ無縁なボクシーな無骨で愛想のないスタイルにも映る。しかし、あのゴルフに乗った時のコンパクト・カーとは思えない独特の解放感は、この極端とも思える高さがもたらす成果なのである。よくある国産車の「鮫だの鮃だのをモチーフにデザインしました」などという訳の解からない発想など最初から入り込む余地がない、成熟したドイツの車社会の真骨頂が、この高さに代表されている、と考えておくべきだろう。
結論を述べれば、カローラはクラス・カーとして同社の上下に位置する車種への配慮が見える。シビックは2ボックス・カーへ向いている市場(消費者)を考え過ぎた線の細さが気に掛かる。アストラは同じドイツ車としてゴルフを徹底的に意識した様子が見え見えである。そんな中でゴルフだけが誰にも邪魔されず、誰をも気遣わず「世界のコンパクトカー」の在り方を最もラディカルに探求した形跡が感じられる。
(この原稿を書いている時点で、新カローラは思わぬ販売不振にあえいでいるという。しかし、こんな事でこの車への一方の称賛が変わるとは思えない。それよりもカローラがクラスカーという立場を離れたら一体どのようなクルマになったのかという興味の方が強く残るのだが、、、。)

(注1)現行、最も厳しいのが米国の30マイルの正面クラッシュ安全基準。これに対してニュー・ゴルフは35マイルでも耐えるばかりでなく、94年から実施予定の35.5マイル(53.6Km/h)の側面衝突テストにも合格している。また、2.8リッターのV6型エンジンは社内規定の衝撃吸収空間を確保するために何と15度という超狭角の設計を実現している点も見逃せない。
(注2)この方法の詳細については現時点で未発表だが、この制度そのものが同車のリサイクル率が高い素材を多く採用している裏付けなのだろう。しかし、産む効率を追求する工場において、廃車解体→生産素材化という図式のリサイクルに経済性を与えるだけの充分な自信がなければ出来ない相談である。工業化社会における企業の新しい常識への布石になるか注目である。

※写真解説
一度設計が完了したものを再度やり直したと噂されるニュー・ゴルフは、特にリサイクルの課題に大胆な提案を持って登場した。

写真は右から初代、ニューモデルの3代目、2代目ゴルフ。少しづつ変化する中、全高1410mm以上の背高スタイルは変わらない。

連載 デザインの検証学8

二人の軌跡
倉俣史朗と本田宗一郎の訃報
時代の変わり目なのだろうか、1991年という年にはとても偉大な人が数多く亡くなったような気がする。中でも私達デザイン関係者にとって倉俣史朗氏の急逝は驚きだった。インテリア・デザインだけでなく、全てのデザイン界のトップ・デザイナーの一人としての存在がとても大きかったから、そのあまりにも若すぎる突然の訃報は世界デザイン界を駆け巡った。
その半年ばかり後に亡くなった本田宗一郎氏も少なからずデザイン関係者に衝撃をもたらした。一介の町工場から世界のホンダに築き上げた氏は、ある意味では今日の日本を象徴するような人物だったため、産業界のみならず多くの分野に悲しみを落とした大ニュースとなった。
しかし、悲しいには悲しいが、倉俣氏のあの通夜の寒さに想いが乗り移ったような悲しさは本田氏にはなかった。それは、亡くなった年齢のこともあろうが、何と言ってもこの時代そのものを見事に走り抜けた、氏自身が時代そのものだったという見事さがもたらす感慨なのではなかろうか。
この訃報はニュースとして、あるいは解説記事として、TV、新聞、雑誌等あらゆる媒体で流された。その功績について、人としての生き方について、そして世の中に登場させた商品の数々について、色々な視点から様々に、、、。
こんな折、私達デザイナーにとっては本田氏に勝るとも劣らない重みがあり、少なくとも世界的にこの業界では高名なデザイナーであった倉俣氏の死について、新聞などで語られることもなく、媒体での紹介が専門誌に限られていたことに気付いた。このことは、あれだけの軌跡を残した人物が一体この世の中でどのようなポジションにあったのか、あらためて私達自身がデザイナーとしての社会との関係を逆に考えさせられる結果ともなったのだ。
「倉俣史朗」が語るもの
本田氏から見ると倉俣史朗はとても難解な人生で、極端にいえば「陽と陰」の関係にも似ている。本田氏の人生には大半の人が拍手を送ることができるが、倉俣氏の場合は一部のデザイナーにすら理解されない場合がある。全ての人生上に称賛が渦巻いた人と、限られたスポットライトに照らされた人生。
確かに一般的な社会から見ると作品と同様に倉俣氏の人生は逆説性に満ちている。その逆説性の最たるものがデザインを経済活動に奉仕するものとしない、徹底した「作品」性へのこだわりである。デザインされた空間やモノ全てには「商品処理」の痕跡がみとめられない、とてもピュアなもので貫かれている。これ自体がすでに現代においてはアイロニーなのであろう。
「インテリア」をそれまでの住宅室内という概念から大きく商業空間の世界に移行させた氏は、生活とは異次元のこの世界を活用して、次から次に新しいことをやってのける、この特異なクラマタ・イズムを何時の間にかインテリア・デザインの主流へ押し上げてきた。しかし、それらのデザインは「企画書」などの臭いがしない、優れた感覚的なものを切り札にしているのが特徴である。この「感覚的」という、それまで世の中で毛嫌いされた「方法」がいかに力を持ったのか、ここに倉俣史朗の隠れた力が発揮されている点も見逃してはならない。
その一つは氏の「写真写り」への執着(注1)にみられるように、徹底した視覚的な観点、すなわち専門誌などの誌面を最優先に意識したものだったと断言するのは極論が過ぎるだろうか。この意味で倉俣史朗は媒体をメッセージの方法として活用した最初のデザイナーであった、とすることが出来る。
次に、意外と見落としがちだが、デザイン設計と施工(イシマル社)の密接な協同と明確な作業分離を確立している点が注目される。これは、それまでの「作り方」を変える革新的で感覚的なデザインの具現化の方法として重要な部分であり、少なからずその後のデザイナーには参考にされ、多くの教訓を残している。「感覚的」だった氏が、具体的なデザイン作業においては極めて知的な明晰さを示していた事も記憶にとどめたいものだ。

情熱のかたまりの様な技術革新で大衆商品を提供し続けた本田宗一郎と、あくまで自己の視覚的な作品作りに固執続けた倉俣史朗は、このように全くあい反する生き方をしていたことになる。共通している点は本田氏が技術革新を通してのモータリーゼーションを、倉俣氏がそれまでの狭義なインテリアデザインを前衛アートの域にまで拡大して見せた、共にその無限な可能性へ挑んだ点だろうか。それは本田氏が限りなく外側の社会に向かって行ったのに対して、倉俣氏の場合はあくまで自己の内側へ向かう志向が二人の関係の違いを象徴する。
自身の意向から本田氏の葬儀はなかった。替わって「お礼の会」なるものが営まれ、会場のパネルにはこう記されていた。「Thanks to all of you,it was wonderful life. Thank you」そして、倉俣氏の通夜でこんな呟きが聞こえた。「なんて完璧な人生だったのだろうか」それぞれに相応しい言葉である。

(注1)倉俣作品を誌面の写真で見てから現場や現物を見ると、意外にもモノの方が美しい場合が多い。これは氏の姿勢からすると皮肉なのだが、現場インテリアは狭いから撮影が難しいから、と理解出来ても、なぜ椅子などの現物がキレイに撮れなかったのか筆者には謎である。
※写真解説(倉俣分)
1985年作のビギン・ザ・ビギン トーネットの椅子にスティールを巻付け、本体を焼いた造形で、込められた意味は非常に多義的だ。
※写真解説(本田分)
1958年の発売以来ほとんど変わらず販売が続くスーパーカブ。当時としてはあらゆる観点で、革命的な技術とデザインであった。

連載 デザインの検証学9

通勤電車を考える
「東京」そのものの問題
東京への一極集中、これは確かに深刻な問題である。このために政治機関の分散や、地方の経済活性化などの問題は日常化し、毎日、新聞のどこかの欄を必ず賑わしているほどである。こうした状況において、最近では新手の「東京たたき」と「地方イメージ・アップ」のデータなるものが次々に登場している。その代表的なものが91年度版国民生活白書の中で紹介されている「生活の豊さ指標」である。これは「住む」「働く」「自由時間」の三つの項目を試算したもので、上位になった山梨県や北陸などの地方に対して最下位の千葉・埼玉両県を含む東京圏は軒並み評価が低いとするもの。
こうしたデータは試論としてはおもしろいが、依然として東京圏に人口が集中している原因の究明にはなっていないし、ましてやそれをストップさせる原動力にはなるべくもないのは誰もが理解出来よう。それよりも、目の前で起こっている悲惨な現実に対する明確な対策の方が重要ではないか。「東京」も「地方」同様救われなければならないのである。
東京の問題、これは色々ある。土地不足・過密から来る住宅難、騒音、空気や水の汚れ、物価高等々、数えればきりがない。しかし、解決の糸口さえ見えないのが「交通」問題であり、中でも極限まで来ていると言われ続けている地獄の「通勤ラッシュ」は最悪な状態である。
901系新車両の時代への疑問
国鉄時代からJRへ移行する時分、全国のほとんどが赤字路線であるのに対して、東海道新幹線と山手線だけが群を抜いた収益を上げているというデータがあった。特に山手線は正常な運営を営むのに半分のコストしか掛からず、現在のJRでもドル箱的な存在である。この収益を全部同線に回せば問題も幾らか解決されただろうが、勿論これは全体の一部ということで、収益の配当を集中投下することは許されない。成果が認められるのは、ほとんど全車両の冷房車の完備といったところだけであろうか。
思えば1987年、「国鉄分割民営化」によって「JR」に変わってから、私達は色々な改善を体験している。特に駅員の態度やサービス面はそれまでとは大いに違う、歓迎されるべき内容のものだ。一方、車両設計においても本格的なデザイン導入がなされた成果について、誰もが「オヤッ」と感じた記憶があると思う。中でも新幹線の新しいシートは、登場してからほとんど改良されなかったものから劇的に快適になったし、「成田エキスプレス」253系車両のヨーロッパ調の都会的なデザインは、この類の可能性を大いに示唆するものとして注目されたのは衆知の通りである。
こうした現実の中で注目されるのが、今までの車両205系が1991年度で生産を終了し、大幅なモデルチェンジを以て901系となって登場することである。そもそも205系は103系、201系と続いた国鉄時代からのもので、1985年から投入された、例のステンレス・ボディが特徴である。しかし、このモデルの結末は6枚ドアとシート折り畳み式に代表されるように、過密是認の思想の発展型であり、別の視点に立てば改悪を計ったもの以外の何物でもない。モニター設置によるビデオ放映も結構だが、あの状態で楽しむことは無理である。今春、概要が明かにになる901系新車両に期待できる範囲は残念ながらすでに極端に狭いのだ。
ここで提案したいのは(注1)、提案そのものが都市圏のための電車交通の在り方を具体的に構想することが先決だということだ。JR幹線を含め、そこに集まる私鉄幹線がごく一部を除いて今だ複々線化が計画の段階である。すでに複々線化が実現していたとしても理想にはほど遠いのが現実ではなかろうか。まったく、こうして考えると絶望的な感じがしてしまうが、もう少し根本的に考えたい。
JRや私鉄の交通行政は運輸省の管轄である。しかし、この行政を福祉や厚生的な側面から考えると「輸送効率」や「出来るだけ安い」運賃指導を柱としたものだけでは時代遅れである。フランスの女性首相の批判の中にある「2時間の通勤」は時間の長さで考えるよりも内容で捉えなければならない。「2時間が快適」であれば、その時間も有効で文化的であり得るのである。ユッタリと本やビデオを鑑賞したりする通勤、そこには逆にその時間の長さに価値が発生することだって考えられる。とにかく、乗客の理想を高く掲げたものを将来像として、我慢や忍耐を前提から取り去る意識から全ての計画をスタートしてもらいたい。
通勤電車を考えていくと、デザインの環境や条件面の重要さと同時に「デザイン」の限界についての問題が必ず浮上してしまう。軽自動車の発展に見られるように条件内の進歩は確かに可能である。しかし、条件整備は優れたデザインを実現するための大切な問題であることには違いがない。その理想を考え、訴え続ける重要さを通勤電車の歴史は私達に教えているように思える。

(注1)意外と見落としているのは女性に対する配慮である。トイレは除々に良くなっているが、まだまだ落第で、ブタ小屋同然なものがいくらでもある。また、幼児の更衣室を全駅に設置するようなサービスも必要不可欠である。

写真解説
※エクステリア
「成田エキスプレス」253系車両。これが山手線に沿って走る姿を見るとき、あまりの違いに驚いてしまう。
※インテリア
253系のインテリア。こんな素晴らしいシートに座って通勤出来る日はいつのことか。デザイン→(株)GK  写真提供→鉄道ジャーナル

連載 デザインの検証学10

製品マークの背景
デザインは良くなったが、、、
CIやBIブームが続いているが、その目的や効用の企業内効果についてはひとまず横に置いて、消費者から見てもっとも現実的で、見逃せない存在が製品に付いて来るマークやエンブレムの類だろう。この製品メーカー・マークこそが商品とユーザー、あるいは企業と社会の接合点であり分岐点なのである。
筆者がGマークの審査委員になった頃の家電製品のデザインは惨憺たる状態だった。これがグッド・デザインの審査を受けようとする商品とは思えない厚化粧に加えて、販促用のPOPがラベルだけでなく堂々と製品に直接印刷されているものが相当数あり、それはまさに「秋葉原」の縮図そのもので「やれ売れ、それ買え」の図式むき出しだった。
あれから6年、今日の家電製品は全般に随分と美しくなった。無意味な購買意欲をかき立てるような虚飾はスッカリ蔭を潜め、冷蔵庫はダイニング空間の一部であり、コンパクトCDステレオはインテリア雑誌のアクセサリーとして、鑑賞に耐える体裁を身に付け始めている。技術革新が定着し、モノにうがった神話がなくなった時にデザインはリファインされ、そのモノの持つ本来の形へ帰結して行く。テレビ、電卓、掃除機、パソコン、自動車、カメラ等々皆そうである。だから、大きい流れとしては好ましい方向に向かっていることは確かであり、嘗てのインダストリアル・デザインの問題は消え失せてしまったかに見える。
では残存している、あるいは次なる課題は何だろうか。これは意外にも旧来から引きずっている本質の部分に他ならないし、発展すればするほど益々疑問が膨らむ問題でもある。
意味が消滅するブランド
製品に付いているブラント類はその出所(メーカー)や種類や性質を明かにするものである。従って、これが大きな意味を持つのは購買する選択の時点であり、生活空間に入って来た段階で役割は消去される性質のものである。しかし、自動的に煙のように消えうせるものでない点が厄介な矛盾である。
例えば、その昔、精密加工の粋を競った「時計」はクオーツ(水晶発振式)が普及するとブランドを表示する意味がなくなった。例を上げると最近の川崎和男デザインのクロックは正面からは全くブラントに相当する表示が無くなっているが、だから川崎和男デザインの時計に性能的な不安を抱くものはいない。これは電卓も同様で、メーカーがカシオだろうがシャープであろうとその性能を心配する人は皆無なはずである。(それなのにベタベタ、ゴチャゴチャと余計なブランドやロゴ、文字がおどっている)。
しかし、一方で私達はカメラのハッセルブラッドやアップルコンピュータ、そして車のBMWやフェラーリのマークには納得し、むしろ酔いしれるほどである。また、ヤマハのピアノやペリカンの万年筆に付いているマークに嫌味を感じないのも事実である。ここに生じる差はいったい何だろうか。今日私達がその存在(の必要性)を納得出来るのはどのような場合なのか。
ある種の工業製品の頂点を極めたとされる「メイド・イン・ジャパン」は基本的に無個性で問題を生じさせない、安全で合理的な生産方法を探索した結果である。これをさらに経済効率を追及し発達させるとOEM(相手先ブランド生産)供給が容易い性質が浮かび上がる。最近の8ミリ・ビデオ・カメラに同一本体に色々なブラントが付いている姿に代表されるように、家電や車、パソコンなども同様である。
産業が高度に発達すると技術的な裾野が広がり、一企業の体系だけでは収まらず、全国的あるいは国際的な体系が出来上がり、またそれが必要となる。それを最大公約数的に満足させる製品、つまりあらゆる角度から柔軟に生産可能な商品こそが一つの優れた商品設計の前提となるという訳である。つまり、ここで企業の個性をそぎ取る行為こそが企業発展の秘訣であるという皮肉な性質が浮かび上がって来るのである。
こうしたシュミレートされた生産方式の信頼性に対して、経験や伝統あるいは独自性といった部分への信頼性は歴史的に除々に後退している。特にハンドメイドのクラフトマンシップを謳った「製法」は過去のものになりつつあり、ブランド性は薄くなることはあれ濃くなる流れは途絶えつつある。これは近代産業の一方の宿命である。
こんな中でも先のブランドに魅力を感じるのは上っ面のCIやBIに寄らない、末端まで心血が行き渡ったポリシーやメッセージに心を動かされるからだろう。しかし、一般的に言ってこれを全製品に投入するのは現代においてかなり困難なことかも知れない。
さて、ここまで納得出来たらデザイナーは次の二つの中から良い方法を選択しなければならない。一つは川崎和男方式、表面から消し去ること。もう一つは製品に馴染めない出来の悪いロゴタイプやマークをグラフィック・デザイナーの手から奪い取り、自ら改良案を提出することである。

写真解説
※アップルコンピュータの有名なリンゴ・マーク。以前ほどのグレードの維持は見られないものの、世界で最も優れたデザイン・ポリシーがマークにまで浸透している手本。同社の基礎を作ったスティーブ・ジョブズはデザイナーが提案した色擦れ防止のブラック・ストライプを拒否し現行マークになった逸話が残っている。製品には、これをさらにプレスしたものを落とし込み成形部にはめるという凝った方法を採用している。美しい!
※イサム・ノグチのデザインによる和紙照明「あかり」シリーズのマーク。あくまで紙の一貫した彫刻アートとしてデザインされた、この照明は、40年以上前に蛍光燈が急激な普及し始めた当時に考案され、その線光源に対して「明かり」は大陽や月と同様に点光源でなければならないという主張が込められている。マークもその大陽と月をモチーフにデザインされており、このシリーズの傑出したポジションを不動のものとしている。
※トヨタ・ソアラのエンブレム。「未体験ゾーン」をキャッチ・フレーズに登場し、新しいパーソナル・クーペのジャンルを築いた同車も昨年三代目を迎えた。このモデルから対米輸出も始まるということで、デザインは一気に変わり貫禄も充分備わった。だが、残念なのがあまりにも安っぽく、まるで子供のバッヂのようなエンブレム。これはクラウンの王冠マークも同じで、トヨタの新しいマークが素晴らしいだけにやけに目立つ。
※衝撃的なデビューを飾ったソニーのウオークマンも10年以上が経過。性能もさることながら、パッケージや周辺機器等、総合的な機目の細やかさは一層磨きが掛かっている。しかし、少々くたびれて来たWALKMANのロゴタイプやSONYのマークがやたらベタベタ貼り付いているのは如何がなものか。こんな姿を今の若者は「カッコイイなどと感じていない」、とデザイナーはとっくに気付いている工夫は見受けられるが、、、。

連載 デザインの検証学11

大橋晃朗の残した謎
優れた「先生」からスタート
東京造形大学の教授であり、異端とも思えるデザイン活動で知られる大橋晃朗氏が今年2月初旬、膵臓ガンのため53才の若さで亡くなった。今回は大変稀有な生き方をしたデザイナーとしての足跡を振り返りながら、死を惜しみ、その謎につつまれた生き方に少しでも迫ってみたい。
氏は、筆者が同大学に在学中の1968年から、室内建築専攻の助手として入った。直接教わることはなかったものの、その独特の存在観は、その後の活動を充分に暗示するものがあった。当時は産業社会の要請で続々と美大が誕生していたことでも解かるように、大学のデザイン学科はデザインを学問として教え学ぶというよりは一種の職業訓練校的な色彩が強く、従って優秀な「先生」は、イコール第一線で活躍するデザイナーという傾向にあった。
しかし、大橋の場合は先生を本職とし、デザインを学問的に探求しながら、さらに優れたデザイン活動を目指す、氏の場合は珍しくこのタイプだった。これは大学の教職に就くととたんに仕事のレベルが落ちても平気でいる先生とは大違いで、むしろ、まず教職としての職能を先行させ、その中から次第にデザイン界で頭角を現した、まさに理想的な「先生」だったのである。
三期に分かれるデザイン活動
さて、20年に渡るデザイン活動を眺めると、大まかにみて三つの期間と内容に分けることが出来きる。最初は1970年代前半の収納家具に代表されるもので、これは大変に端正でストイックな造形を特徴とし、氏が桑沢デザイン研究所を卒業後、建築家・篠原一男に師事したことが色濃く感じさせる。この当時、俗っぽい婚礼家具のようなものしか目にしなかった私達には、これはこれで衝撃的なデザインに映った。
この衝撃性は次第にエスカレートして行き、第二期には「七つの椅子」や「カッタアドボード・ファニチュア」を発表して、家具の歴史性と現代のモダンデザインの意味を探索しながらメッセージとしての作品性を確立し始める。前者においては金属のパイプをベースに精緻なディテールを見せていたのに対して、後者は史的な様式のシルエットを合板から抜き取るという比較的簡単な方法が用いられている。これらは異なる作風にも思えるが、史的引用と現代デザイントの対比という観点では共通したコンセプトである。
そして、1980年代に入ると先の収納家具に見られたストイックな感じとは逆に、欲情的とも思える豊穰な家具デザインが続く。その圧巻は1986年、「臨界の皮膜家具」展という形で発表されたハンナン・チェアである。目を見張るような大きなサイズのその椅子は、まるで異星から採取して来たような異様な感覚に包まれ、逆に今、私達の使っている家具の日常性を強く意識下へ引き戻す効果を発揮した。
振り返って見ると、こうした一連の活動に強い影響を与え、また、それを支えた三人の人物が必ず浮上する。まず、何と言っても最初に師事した篠原一男。そして、次が造形大の教授として入ってきた多木浩二で、氏からは家具の歴史的な考察について影響を受けている。もう一人は建築家・伊東豊雄で、大橋家具の最高の賛意者であり、また数少ない注文主として、その設計現場の家具に数多く採用している。
ミステリアスなデザイン思想
この三人の存在は、上記の三つにまたがる時代の呼吸と合わせて、実に見事に氏自身の作風にブレンドしているように見える。しかし、不思議なことにこれだけ卓越したデザイン力を見せておきながら大橋デザインになる商品が流通している姿を目にしたことがない。むしろ、年数を重ねるほどに商品的な性格から除々に離れ、一方、プロトタイプとしてのデザインのインパクトは益々強まるばかりであった。
当時の篠原一男が持っていた住宅の特異なモダニズムへ繋ぐ家具の在り方、多木浩二から享受された史的探求から抽出したマニエリスム的考察をミニマリズムとして昇華された作品、そして、次々に実験的な建築を手掛けた伊東豊雄の空間に於ける非日常性をあらわにしなければならなかった家具達。外部から眺めると、この三つに分かれ、三人から受けた受けた影響が実は氏にとっては同じ次元に照合されなければならないトリレンマ(つまり、三つのジレンマ)がそのデザイン・ダイナミズムの原動力ではなかったか、と推論してしまうのは独断が過ぎるだろうか。
しかし、大学の教授という社会的な地位に溺れることなく、教職と現代デザインの在り方を問い続けた大橋晃朗のデザインは「大学の教授のデザイン活動」としては過去、類を見ない成果を収めた、と誰もが認めることが出来るだろう。氏のデザインは学生に対し、そして社会に対して何かを喚起する行為の一環であり、商品に帰結する世俗的なデザイン以外の崇高な姿を私達に見せてくれたのではなかったろうか。
写真解説
※トゥム椅子( )・ピト椅子( )1978年、七つの椅子展で発表されたシリーズの内の二点。その後の時代に全盛を迎える史的引用、あるいはリコンストラクションのイズムを先取りしたデザイン・コンセプトであった。また、微細なディテールは中期の作風を端的に現している。
※ハンナン・チェア・1985 「臨界の皮膜」展で発表。大胆な構造とディテール。それに常識を覆す、極端とも思える過剰なデコレーション。これだけ加飾的でありながら、不思議なシンプルさを保っている。異端で熱狂的な大橋神話を決定付ける会心作であった。
大橋晃朗・略歴
1938年愛知県生まれ
1962年桑沢デザイン研究所卒業
   東京工業大学・篠原研究室勤務
1969年東京造形大学助手
1972年アトリエ設立
1978年七つの椅子展
1986年臨界の皮膜家具展
1992年逝去

連載 デザインの検証学12

ポストバブルの
集合住宅
屈折している日本の住宅観
この原稿を書き始める頃、東京の大田区で、幼児四人がアパートで焼死するという痛ましい事故が起こった。両親と六人家族で二年ほど住んでいた部屋は、四畳半に流しとトイレ付き浴室のみ、広さはわずか12.5平方メートル、家賃は五万七千円だったという。一方、テレビでは次のような住宅メーカーのコマーシャルが長期間にわたって流されたのは記憶に新しい。「大物を育てるには天井を高くすると良い」。「三階建ては二階建よりエライ」。
現在の日本の「住宅像」は屈折し、異常な状態に置かれていることを意味字句も上記の二つは語っている。東京を中心とした都市圏における決定的な住宅の貧困さ、この問題は何十年にもわたって取り上げられて来た。しかし、結果はご覧の通りで、解決するどころか結果は悪くなるばかりである。加えて地上げや乱開発の横行、残ったものは超高値と、建築物としての駄作の山、息詰まるような市街地、持てる者の品位のない優越感、、、。
住宅が高嶺の華になってしまっただけではない。損や得の計算、あるいは資産としての対象にあまりに傾倒しているために、本当に問われるべき内容が疎かになっている事を私達は忘れている。こうした経済至上主義の一環に埋もれた住まい像を洗い出し、日本の住宅がどのようなものであるべきなのかを考える。その鍵を握るのは何と言っても「集合住宅」であり、それをデザインする建築家の関わり方にどうしても期待が集まる。
集合住宅と建築家の関わりは?
議論を呼んだ東京・吾妻橋のアサヒ・ビールホール(P・スタルクのデザイン)の建築。実際は1989年、この地には三つの建物が建った。同じくアサヒビールの本部ビルと、もう一つは公団(日本住宅・都市整備公団)の賃貸高層マンションである。ここで賛否の対象となったスタルク独特のオブジェに注目が集まりすぎているが、建築のデザインレベルで考えるならば、あの公団の建築デザインの出来の悪さの方を大いに問題にしなければならなかったはずである。(※注)
この二つの建物は、ある意味で建築のデザイン過剰と過少の問題として、また、建築の背景にある経済的な成り立ちの比較として格好の材料である。ビール会社のものは同社の販売シェアを二倍にも伸ばしたドライビールの利益がふんだんに投入されている豪華さ。片や公団の建物は「高級」賃貸マンションとはいっても、残念ながら「高級」の名が泣いてしまう、あまりに情けない姿である。
日本の集合住宅を代表する「団地」は、その大半が1955年に設立された公団によって建設されてきた。その社会的な要請は今日に至るまでに、量→品質→環境インフラと変遷した形跡は認められるものの、美的なテイストを含めた総合的デザインにおいては依然として低水準のままであり、ここでは建築家が活躍した形跡は浮上していない。このことが民間のマンション業社に与える悪影響は計り知れないほど大きい。
学ぶべき例と議論の分かれる例
こうした中、優れた集合住宅は立地条件が良く、都市圏から見ると需要が低い地方と、独特のアプローチを試みた民間チームの方が良い実例を残している。昨年だけでも、茨城県営石岡南台アパート、同じく松代アパート(二つとも設計は大野秀敏)、岡山県篠山町営河原町団地(設計・高口恭行)、そして東京・目黒の泰山館(企画・チームX、設計・泉幸甫)。いずれも個性的で基本設計がしっかり成された美しい佳作。特にバブル経済崩壊後の住宅建築の商品性を考える上で貴重な参考材料として注目しておきたい。
集合住宅と建築家との関係、実はポジティブなものとして、厄介な課題がもう一つある。福岡「シーサイドももち・世界の建築家街ゾーン」と「ネクサスワールド(福岡地所)」、熊本「アートポリス・県営住宅」。いずれも九州の物件で、全てがそれぞれ高名な建築家が設計を担当している点が共通しているが、そのデザインのあり方も共通して議論の対象となった。
「奇抜過ぎる」、「街並みに調和がない」、「居住効率が悪い」等々。いずれも建築家の個性が裏目に出た部分を一部に含んだケースである。筆者が見ても、集合住宅としての考え方に疑問を抱いたものがあり、日本の建築家のこの類のデザイン力や見識に問題がありそうにも感じられたものである。
日本人の平均的な住宅の理想像は、広くプール付きというアメリカの風土に根付いたものを指しているらしい。しかし、これも何となく幼稚で、憧れに過ぎない矛盾だらけの住宅観である。そう言えば、政府の住宅政策も、メーカーの住宅も、今まで全くもって未熟そのものだった。せめて、建築家がそうした概念を覆す、超魅力的な集合住宅のデザインを提示してくれることを祈るのみである。

(※注)現在日本の住宅購入者は入手するのに必要な予算ばかりに必死になって、住宅の外観やインテリアの問題ははるか遠くに後回しになってしまっている。そこにきてマンションなどの集合住宅はそうした問題に注文を付けたり、クレームを差し挟む機会を奪われているから、提供者側はあくまでデザインよりコストばかりに熱意を注いでしまう。これは住宅を一つの商品として見た場合のメカニズムから発生する問題である。

写真解説
※「ウッドパーク・金沢文庫」横浜市金沢区(興和物産)。マンション不況の中、昨年後半に平均倍率七・八六倍で即日完売。基本設計はアメリカのCYP社。縦長で、背面が崖という難しい立地条件を逆に巧みに活かし、地中海風の爽やかな外観が魅力的。内部の間取りのディテールも無駄を抑えつつ随所に工夫が見られる。
※「多摩ニュータウン・愛宕地区」近々分譲予定。やっと建築外観に表情が出てきた。今やこうしたブロックの分譲価格は合計で五百億円に迫り、中には三千億円を超えるケースもある。つまり、これだけで巨大事業だということが案外知られていない。それにしてはデザインに力が入っていない、と感じるのだが、、。

連載 デザインの検証学13

一戸建住宅のトポロジー
高価な吉野屋牛丼式戸建住宅
欲を言えばきりがないが、土地が高いという話があっても建物自体が高いとは案外思われていない。特に木質系で2×4(枠組壁)工法を選択すれば結構安価に、それなりのものが建つ。これと建具のアルミサッシとの関係は今や戸建て住宅の代表的な様式である。
「人手不足、材料不足、時間不足、ついでに予算不足」。別の言葉で言えば「簡単に、適当な材料で、早く、そして必ず安く」であろうか。まるで吉野屋の牛丼のような価値観をこれらの住宅は代弁している。これは今日、日本民族の最も大好きな思考・判断方法なのである。これには勿論、問題を出さない世界一の技術が裏付けされている点も忘れてはいけない。
これだけに留まっていればある種の美学が誕生しようというものだが、ここで日本人の中流意識が邪魔をする。つまり、この条件で我家を立派に、なるべくデラックスに見せたがる風潮。ここから全ての悪趣味が始まる。似ても似つかない豪華絢爛に見せ掛けた玄関ドア、訳の解からない模様が貼り付いたテラスやベランダの手摺り等々、上げたらきりがないほど沢山ある。
最近の公団や公社の一戸建分譲団地は、土地だけを区画整理して、後はプレハブ・メーカーに「個性」を競わせるケースが増えているから、事態に一層拍車が掛かっている。本来、最も統一された住環境が実現される可能性が高いはずなのに、現実はそれぞれのメーカーの低俗さがぶつかり合っているだけの姿を見るのは残念である。
注目の古河市「まくらがの郷さと」
住宅を供給する量より質の時代と叫ばれ始めて久しい。しかし、実態は建てれば売れる今までの時世を投影してか、私達を感激させるケースはまだまだ少なかった。そのような中、古河市公社による「まくらがの郷」一戸建分譲団地は昨年、久々の異色作として建築界にそのニュースが駆け巡ったことはまだ記憶に新しい。
古河市は東京・上野駅からJR快速電車で約50分の距離。現地は古河駅から2Km、国道が隣接し車で8分程度、一応、首都通勤圏に入っている。ここに40区画を整理、その内の20区画を昨秋に完成し、発売されている。元々山林だった地域だが、注目すべきは地元大工集団が施工にあたったという、在来(伝統軸組)工法による徹底した和風建築団地を実現した点である。
設計監修は吉田桂二氏(連合設計社市谷建築事務所)で、61〜100坪の敷地・38〜53坪もある床延面積の建物は勿論全て設計が異なっている。しかも、インテリアの設計は住宅というより旅館か料亭を連想させる堂々としたもので、これに注いだ関係者の意欲のほどが充分伺える内容になっている。そして、それをさらに裏付けるものが木製建具へのこだわりである。
勝手口のドアなど、極く一部を除いて建具・サッシは全て木製で統一され、外観の洗練されたデザインと共に、この一角を浮世離れしたような新鮮な空間に仕立ている。わずか30年の間にアルミサッシの急激な普及で姿を消しかけていた我が国伝統の建築技術の数々。なぜか古都を訪れたような、不思議な落ち着きを醸し出し、新鮮である。
これだけの出来に広い敷地と建坪、東京近郊では群を抜いた物件に映るが、現実はきびしく、発売後4ケ月、20件の内、半分の10軒が売れているにすぎない。(注)これは福岡のネクサス・ワールドと似た状況で、注目された割には例のバブル崩壊の影響をもろに受けている様子がうかがえる。
しかし、ここで考えたいのは、仮に経済が正常な状態にあったとしても、この物件が持つ特徴が本当に理解されたであろうかという点である。一般的なレベルで見れば約六千万円から八千二百万円という価格には少々割高感がある。吉野屋の牛丼のような住宅概念に馴れてしまった都会人には却って異様な様式に思えるかも知れない危惧さえ感じてしまうのだ。
「土地」に隠れた「住宅」問題
豊かな人生をおくるために住宅があるのではなく、住宅のために人生を費やす。これが東京圏に住む人々の率直な住宅観であろう。これが一戸建住宅になると事態は一層緊迫感を増し、犯罪の巣スレスレの様相が生まれている。しかし、ここにおける「住宅問題」は「土地問題」であることは子供でも知っている。そして永年の間、「土地」は行政に、「住宅」は工業に社会的な解決を委ねてきてしまった。
この結果、住宅問題と聞けば欠陥住宅を連想しまうような貧相な住宅観が根付いている。それに費やした重みを考える時、私達は自然にもっと住宅の質やテイストに目が向けられなければならないはずだ。この意味で、「まくががの郷」は絶妙のタイミングで日本の住宅がどこに位相していくのかを示す、一つの格好の材料を提供したように思える。
(注)契約した購入者は4月20日現在、やや意外にも、10件の内東京3、茨城5、埼玉2という数値になっている。

まくらがの郷 概要
名称/まくらがの郷(古河北ノ内団地)
所在地/茨城県古河市大字鴻巣北ノ内
交通/JR古河駅より徒歩25分
総区画面積/5.407平方メートル
総区画数/40区画(内、公社分20戸)
敷地面積/202m〜366m
建物延べ面積/125m〜175m
建築構造/木造軸組構造
完成/平成3年11月20日
地域地区/第2種住居専用地域
事業主体/財団法人 古河市住宅公社
設計/連合設計社市谷建築事務所
施工/古河市建築組合

財団法人 古河市住宅公社
〒306茨城県古河市長谷町38-18
電話 0280-22-5111(内線3337)

連載 デザインの検証学14

森正洋の茶わん
デビュー作・醤油差しの背景
プロダクト・デザイナーの森正洋といえば、あの35年近くも前にデザインされた白山陶器の醤油差しを連想する人が多いのではなかろうか。その氏が、今度はお碗をデザインし、日本デザイン・コミッティーの選定品「デザイン・コレクション」(注1)となって銀座松屋の店頭に並び、注目を集めている。今回は、この二つの製品の背景を考えながら、デザイン運動の役割の変化などを考えてみよう。
日本のデザイン振興の多くは、戦後復興のための産業奨励、そして輸出促進から派生した海外のデザイン盗用防止をルーツとしている。1950年代後半に猛烈な勢いでそれぞれのジャンルにデザインの団体や振興運動の機関が誕生しているのは、まさにこの流れと見事に一致する。そして、森正洋デザインの醤油差しも、この動きと連動した関係で登場しているが、評価されているのはそればかりではない。
デザインが担った目的にもう一つ、戦後の洋風化という生活様式の変化への対応があり、これに欧米のモダニズム・デザイン啓蒙運動の影響を重ねたものが我が国のデザイン啓蒙思想の骨子となっていた。特に民間のデザイン団体として強力なメンバーで構成された日本デザイン・コミッティー(注2)のデザイン運動は、1955年から東京の銀座松屋デパートを拠点に本格スタートし、森正洋の醤油差しもここが誕生の原点となった言われている。
素材の特長と難しさを巧みに使い分けたシンプルな造形。特に注ぎ口と蓋の部分には機能的に卓越した工夫が認められ、さりげない形の中にデザインの力量の高さを感じさせる傑作となっている。この商品は現在でも下町の雑貨店からスーパー・ストアまで幅広く売られており、すっかり大衆に根付いた例としても評価出来るものがある。
新作碗のデザイン・コンセプト
さて、今回のお碗(正式名称=平形めし茶わん)は、まず、コミッティーが主催運営するデザイン・ギャラリーの個展で発表された。「大ぶりで浅めの平形の茶わんは、とても食べやすくて具合が良い。(中略)深めの茶わんは冷めにくいが、寒さにふるえながら食べることのない今、ゆとりと遊びがある(後略)」(以上・製品しおり文より)とされるデザイン・コンセプトの中にはエアコンの普及などで室内温度が快適になっている現代生活を見事に捉えられている。
また、醤油差しが少品種多量や無パターンといった当時の産業デザインのあり方をそのまま具現化されていたのに対して、このお碗は素地形状は同じながらパターンが膨大な数量が用意され、今日の感覚的に多様化した社会需要に応えている様子が見える。この辺りはそれぞれの時代の要請が異なっていることを指し示されており、ベテラン・デザイナーでありながら時代の読み取りが依然として的確であることを物語っていると言えよう。
コミッティー選定の商品として
しかし、今回はここで話は終わらない。このお碗には、もう一つ問われなければならない部分がある。前述のように森正洋のデビュー作は、あの醤油差しであり、その後、氏自身はその実現に深く関係があったとされる日本デザイン・コミッティーの重要なメンバーの一人となっているからだ。
だから、このお碗を語る前に、もう少し「デザイン・コレクション」について触れておきたい。この銀座松屋の売り場が35年以上も継続している。それはコミッティーの情熱と見識の高さとデパート側の協力の賜物であると評価出来る。しかし、今日にあっては、優劣の問題は別にしても、この選定は「ここらしい」基準を示している一つの価値観に過ぎない。斬新であったコミッティーの選定は、今では「超保守的」と思えるほど頑固に映る。
そこでの、このお碗である。個展で発表された作品、144点からの選抜とはいえ、柄違いで32点という種類は随分多い。しかし、ここで数の多さは問題ではない。首を傾げるのは、ここで紹介する写真の一本線のデザインは従来のコミッティーのデザイン思想を最も色濃く感じさせるものの、他の多くのパターン・デザインには少し違和感があり、デザイン・コレクションの売り場にも馴染んでいない点である。
「デザイン・コレクション」に選定されたものはモノ・トーンで、装飾が施されないストイックな感覚のものが多い。だが、ここで取り上げられる商品だけがグッド・デザインであるとは今や誰も思っていない時代である。したがって、ここで注文を付けたいのは、その選定の特性ではなく、自らが設定してしている概念に忠実であってほしい事である。勿論、他の店で売る場合には何の問題も生じない。これまで一貫した姿勢で活動で影響力を放って来た方々だけに、敢て疑問を呈させていただきたく思う。


(注1)定期的に申請された商品に対してコミッティーがデザインを選定する。その中から、デパートの判断で売り場に並べられるもので、通称これをデザイン・コレクションという。浮ついたデザイン・トレンドとは無縁だが、選ばれるものはモノトーンのものが多く、やや保守的。しかし、選定の安定感は抜群である。
(注2)勝見勝をはじめ、丹下健三、亀倉雄策、剣持勇、渡辺力、吉阪隆正、浜口隆一、原弘、清家清、柳宗理らで発足、その後石元泰博、瀧口修造、岡本太郎、長大作、伊藤憲治、森正洋、松村勝男、粟辻博、永井一正、吉村順三、伊藤隆道、福田繁雄、船越三郎、水之江忠臣、松本哲夫、黒川雅之、川上元美、柏木博、内田繁らの豪華メンバーが参画している。
※写真解説
●森正洋デザインの「平型めし茶わん」。冷めにくい深型より、室内の温度調整が進んでいる現代には、この方が相応しいというコンセプト。仕上は丁寧で美しい。価格二千円。売れ行きは絶好調と聞くが、白山陶器としての発売は現在未定。
●醤油差し(白山陶器製)。発売は1958年だから、約35年も生産が続いている。年産は約6〜7万個、現在まで約200万個以上が作られたという。基本は大・小のサイズに色が5種類用意されている。

連載 デザインの検証学16

エア ジョーダン Vll
素材進化で科学されるスポーツ
スポーツの世界を、30年前と現在で比較すると、使用される素材革新を中心に大きな変化を遂げている事に改めて驚かされる。特に戦後生まれの団塊の世代以上の人達にとって、卓球や、テニスのラケット等が、ほとんど変わらない外観の中に盛り込まれた新素材の数々に、ある種の感動すら覚えるはずである。
これらは石油化学(プラスチックや化学繊維)の材質的な発展が大きく寄与しており、スポーツの質的向上はもちろん、その根本的な思想や意味そのものの転換にまで迫るものがある。その範囲はジャンル別に、高度なものから、私達の日常生活に近いものまで、隅々にまで行き渡っている。また、ここ10数年の間に考え出された新スポーツも多く、1968年にアメリカの生理学者ケネス・クーパー氏が発表した「エアロビクス」や、ジム・フィックス氏の著書「奇跡のランニング」によって急激に広まったとされる「ジョギング」なる概念も、新素材によるニュースタイルと言えなくもない。
意外に気付かないが、日常生活に関連し、大きな変化をしているのが、このスポーツ・シューズの世界である。例えば極端なところでマラソン・シューズを取り上げると、オリンピック出場用は個々選手に合わせたの特注が常識となっているが、今やその重量は100gを切ることが可能であるという。軽目のジョギング・シューズが約300g前後、相当に軽いトラック用でも200gはあるから、苛酷なマラソン・シューズがその半分の重さというのはスゴイの一語である。
究極の「技術」とデザインの融合
こうした技術革新とデザインの関係を、シビアな機能と商品性の関係でまとめ上げるスポーツ・シューズが並ぶ店頭は、特にここ10年ほど、大変見ごたえのあるものとなっている。(注1)それぞれのスポーツ種目別に用意されたバラエティーさ、機能ごとに変化する重量や形状、そこで使い分けられる様々な素材や成形技術。そして、何よりそれらの具体的な間隙をぬって擦り込まれる意匠を見る時、このジャンルはデザインの世界でトップクラスに位置しているとが充分伝わって来る。
その中でも代表的存在がナイキのバスケットシューズ、「エア・ジョウダン・Vll」(写真)である。特に写真のブラックをベースにアフリカン・カラーを散りばめたようなモデルは私達デザイナーをもハッとさせるものがあり、その外観のオリジナリティーにまず引き込まれてしまう。さらに、その大胆なデザインの中に秘められた精緻な技術や科学されたディテール(注2)を眺めると、もう感嘆ものである。
実はこの「エア・ジョーダン」シリーズは、アメリカの超人気選手で、バルセロナ・オリンピックにも出場した、マイケル・ジョーダンのアドバイスのもとに作られたもの。その名の通り7番目のモデルで、毎年一つのモデルが登場するから、すでに7年間も継続しているシリーズということになる。しかし、下手をするとスポーツ・シューズのDCブランドに終わるところだが、実際に苛酷な競技で彼自身が履かなければならない背景が、この商品を厳しい本物に仕立てている。
外観は三番目のモデルまでは比較的平凡な形態に留まっていたものの、四番目のモデル辺りから次第に前衛的とも思えるスタイルになり、そしてこのセブンに至る。そこには専門的に見ると急激な技術的前進が認められるといわれ、バスケット・シューズについての考え方も実戦からフィードバックが活かされたことが、結果的に革新性に溢れた様子がうかがえる。
何よりも興味をそそるのは、厳しい機能的な要素を満足させるために計られた数々のディテールをクリアした上に盛り込まれたダイナミックなデザイン処理。力強い靴底(アウト・ソール)のカラーデザイン、さりげなくランダムな空気穴部(ベンチレーション・ホール)のバランス感覚。しかも、これだけ異端とも思えるスタイルが、なぜか次第にバスケット・シューズの正統派に見えてくるから不思議である。
このセブンは今春、写真のカラーのものと、競技用に主体を置いたホワイトベースのものを限定発売、後にほとんどブラックのモデルを追加発売している。ホワイトベース以外はタウン・ユース需要と考えられ、販売はこちらの方が好調の様子。今では「布バッシュ」と称される昔のバスケット・シューズしか知らない世代からすると、その履き心地には夢のような感触があり、若者が単なるファッションだけで買い求めていないことが理解できる。
商品名だけで考えると、有名選手の名を借りた世俗的な若者向けの商品に過ぎない印象がある。しかし、実際はスポーツシューズを科学するために最も相応しいデータを得るための、極く真面目な姿勢がそこにあることが解かる。次のモデル、Vlllは来春2月に発表予定だという。どのような進化をみせるのか、大いに楽しみである。

(注1)スポーツシューズの業界は、シューズとスポーツにジャンルが分かれるためにデータが掌握しずらいが、日本国内での総販売数は3,300万足以上、この内バスケットシューズは150万足ほどと見られる。
(注2)まず目に入るのがリアクォーター・ストラップ。ハイバックにサポートするタイプが一般的だが、ここでは人工皮革のストラップを採用している。シューズの中にはインナーブーツを内蔵、底部にもファイロンとポリウレタンの二つの素材を組み合わせ、ミッドソールを形成している。
※写真解説 商品名―「ナイキ・エア・ジョーダンVll」発売元(株)ナイキジャパン サイズ24.5Cm〜29Cm 価格21,000円 写真のブラック・ベース+ライトグラファイト+ボルドー色と、競技用を中心にしたホワイト・ベース+ニュートラルグレー+レッド色があり、さらにブラック・ベース+ブラック色タイプを限定追加発売している。ジュニア版23〜24Cmも用意されている。

連載 デザインの検証学17

建築としてのエアコン
「家電神話」を引き継ぐエアコン
産業発展や生活向上の目安だった「普及率」という言葉は、大半が100%近くになってから死語に近いものになった。他に車やピアノなどのように、それに必ずしも満たない大型商品があるにはあるが、それらは使用実態や趣味と関係したものだから誰も問題にしなくなった。むしろ、需要が確定してさえいれば、「一家に何台」その商品を送り込めるか、特に家電業界の最大の目標はこれである。
しかし、冷蔵庫や洗濯機を二台も三台も買い込む家庭など聞いたこともないから、当然その対象はテレビやエアコン、またはAV機器などである。中でもエース格のテレビには来たるべきハイビジョンで膨らむ夢がある。そして、このハイビジョンほどの華やかさはないが、この業界の救世主であり続けたのはエアコンであった。
昨年度の家電業界の総販売実績額は凡そ六兆五百億円、この中でエアコンは一兆四千五百億円ほどにもなる。89年には「一兆円産業」に達し、意外にも現在では総売上の四分の一はエアコンという時代である。台数に換算すると年産約七百万台、まさに「一家に一台から一部屋一台」を標的とする、栄光の家電を引き継ぐエースなのである。
内と外、二つの顔を持つエアコン
このエアコンは他の家電製品と違って、単体完結型ではなく、工事が伴う少々複雑な商品である。そして、機能の性格上、設置効率や確率を考慮して、機械が室内と室外に分かれているのがほとんどである。したがって、当然、室内機はインテリアの、そして室外機はエクステリアの要素を分担することになる。つまり、内と外の二つの顔を持つ珍しい商品なのだ。
内の顔、室内機は昔と較べると随分とおとなしいものになった。そして、店頭で見ると各メーカーとも皆同じ色、同じ形である。まるで談合で申し合わせたように白っぽく、丸みのある形状。
消費者はエアコンを選ぶとき、店頭でもカタログでもこの室内機しか極端に言えば提示されていない。しかし、実際上重要なのは室外機の方である。特に都会の住宅環境を考えれば、その騒音や振動から排水、放熱に至るまで、隣近所の問題から社会公害にまで成りえる幅広い課題を抱えているだ。だからあの無愛想な鉄板の箱の中は、今日まで各メーカーが最も心血を注いだ場所であったに違いない。
現在では、それが作動していることさえ確認することが難しいほど改良され、そうした問題とはほとんど無縁になっている。しかし、室外機には社会問題にならないが、大問題は残っていた。それは建築との関係である。今や美しい建築を実現するには全館完全空調をする以外考えられないほど、エアコンの室外機の始末は容易ではない。普及すればするほど建築の文化的イメージを害する厄介者なのである。
デザインして登場した「エオリア」
こうした状況下、今年の夏はこの室外機を徹底して前面に打ち立てたエアコンが出現した。テレビのコマーシャルや新聞、雑誌の広告等、全て室内機の映像や写真は脇役で、主役はあくまで室外機。普通では絵にならないものを絵にしたその商品は、松下電器の「エオリア」。原田知世をイメージガールに使った広告といえば思い出す人も多かろう。
室内機ではメーカー同士の違いが解からなかった分、ここではそれが実に明快だ。形状は体積を従来の75%にコンパクトにして、それまでの横長のものから逆に少しだけ縦を長くして、正方形に近いものにしている。これはファンの横に置いていたコンプレッサーを下部に寝かせて実現したもので、これによって横幅が70%以上も縮まり、設置条件を一気に拡大した。(注1)
ここまでだけでも、それまで蚊帳の外だった問題を正面から捉えた、志の高い設計態度が伝わって来る。これまでやったのだから、当然その外観についても検討が加えられ、宣伝の前面に立てるまでにデザインされている。外形を強調するような四角の開口部に横格子のグリル。これは従来の丸穴に蜘蛛の巣が張ったようなものとは随分違う。また、配管カバーなど、周辺パーツについての造形的な心配りも新鮮だ。
例えて言えば、よく働くがデザインされていない「日本のお父さん」のようだったエアコンの室外機。それがフィットネスクラブで減量し、スマートになって登場したような印象だ。
テーマを「建築」や「社会派」としての考えられたエアコン「エオリア」は、それだけで勿論、称賛に値しよう。来期からは他社も同調して室外機デザイン・ウオーズ(注2)も予想される。しかし、本当にエアコンが「建築」になるには、世俗的な商品の臭い(注3)や露骨な消費財としての観点を切り捨てなければ本物にはならない。そして、可能ならば、伊東豊雄や妹島和世の設計した住宅に寄り添うことが許されるようなイメージのエアコンの実現を待ちたいものである。

(注1)単なるダウンサイジングではなく、横幅を重点的に従来の78Cmから54Cmに縮めたことが大きい。これによってベランダでの縦置きが可能になったり、天吊りや壁付けの場合の視覚的な圧迫感を大幅に解消している。
(注2)やること、改良・改善すべきことは結構ある。配管の断熱材はテープを巻いて、そのままが大半。その配管の本体からの出口も右・左は自由にならない。据え置きとはブロックに乗っけた姿である。快適な室内と比較するとあまりに貧しいではないか。
(注3)「エオリア」で唯一残念なのは、正面に付いているEoliaのエンブレム。遠くからは見えないかも知れないが、「建築としてのエアコン」という性格からすると明かに蛇足。このデザインが発展すれば、こうしたものが付く余地がなくなるはずだが、どうしても必要だったらエンブレムのデザインも建築的なもので考えたい。

※写真解説 
ナショナル・スクロール・エアコン「エオリア」GシリーズCS-G28V/CS-G25Vの室外機。体積従来比75%というサイズは、全幅・奥行・全高がそれぞれ540・247・540(mm)。重量も32Kgと軽量化に成功。従来の室外機外観の惨めさは蔭をひそめ、室内に飾って置きたいほど、デザインとして飛躍的に向上している。
※写真解説
タイムリーなオリンピック・キャンペーンと重複させながらも、その宣伝は室外機のサイズを徹底してアピール。エアコンと言えば情感に訴えるものが多い中、ここでは筋目の通った商品コンセプトを明快に歌い上げている。タレントのビジュアル効果も知的にまとめて好感がもてる。

連載 デザインの検証学18

川崎和男の作品と商品
新人から「頂点」へ導いた思想
1991年毎日デザイン賞。そして今春の世界デザイン会議ICSID特別賞、リュブリアナBIO金賞。これは最近の川崎和男の受賞歴である。
「新人」として認められる、これは中々難しいことである。プロの、歌や野球の世界では、それがうまければ資格チャンスだけは一応与えられる。しかし、デザインのジャンルでは、単にデザインがうまいだけで、新人にはなれない。少し腕が確かに成長したデザイナーを新人と呼んだりするが、これは認識不足も甚だしい判断である。
現状のデザインについての展望を、完成されたものと考えてはならない。ここの事は何時の時代も大切である。だから、新人とは新しい視点や思想を具現化したデザイナーだけが呼ばれるに値する言葉である。しかし、これを周囲が発見すること、これがまた難しいことなのだ。また、建築やグラフィック・デザインの世界ではコンスタントに新人が誕生するけれども、インダストリアル・デザイナーがこうした脚光を浴びることは極めて少ない最大の要因は、このジャンルは基本的に新しい思想や、デザイナーの新人の誕生を望んでいない環境があることだ。
インダストリアル・デザイナー川崎和男のデビュー(注1)、これは実に鮮やかであった。そして、鮮やかではあったけれども、隙間から差し込むような小さな光に過ぎなかったこのデビューを読み、着目した先輩の関係者が確実に、何人もいたこと、これはやはり大したことだと思う。こうした人に見守られ、その後、氏は冒頭の受賞に示されているように、デザイン界の頂点に登りつめるが、それがどのような思想の基に達成されたものか、考えよう。
CARNAに代表される作品主義
嘗てなかったほどの知性的でエネルギッシュな活動が川崎和男の印象だが、そのスタンスを一言で表現すれば、氏自らが語っているように「作品主義」ということになるだろう。しかし、この「作品」、他のデザインのジャンルでは自然に使われていても、ID界では嫌われ、大いに敬遠される言葉である。従って、その赤裸々な「主義」自体がすでに多くの問題提起をID界に投げ掛けていると言えよう。
川崎和男の作品、これは今日までの活動でたくさんある。たくさんある作品の中でその問題を際だたせるに相応しいのはやはり車椅子「CARNA」である(注2)。冒頭のデザイン賞は直接的間接的にこのCARNAが対象となっており、まさに歴史的なデザインとなった傑作である。しかし、この傑作は販売実績においては思うような成果が得られていないという。
車椅子(注3)はいわゆる福祉商品である。何らかの形で体の移動に不自由している人達が入手するはずだから、購入したり、支給されたりする条件には経済的に厳しいものがある。そこで目安となるのが福祉法により厚生省から支給される金額だが、これは現状で最上限で九万五千百円であり、一般的な手動式車椅子の商品価格帯はこの辺りをターゲットに工夫開発されている。しかし、CARNAは、結果的に価格が五十万円という、この条件とは大きな隔たりがあるものになっている。だから、簡単に言えば「高いから売れない」のだが、これでデザインの話を終わらせる訳にはいかない。
作品がもたらす現実の可能性
世界一を目指した軽量さ。折り畳め、コンパクトな収納を可能にした明快な分離設計。シンプルなエレメントに込められた行き届いた材質の選定と細やかなディテール。しかし、これを全部満足させても「暗い車椅子」になってしまう可能性は充分ある。CARNAの卓越しているのは、こうした理知的な項目を下敷きにして、飛び抜けて格調高く、明るいイメージに仕上げているデザインにある。
氏は病院に入院して、そこで出される食事を拒否するという。病院だから少々マズイ食事にも我慢をし、暗く退屈な入院生活に目をつぶる。こうした一般道徳に屈しない氏の態度にこそ、このCARNAを誕生させたルーツがある。現実の条件や常識から最適な解答を導きだす方法ではなく、そのデザインナが本来どのようなものであるべきかを一人の人格から探求する姿勢。これは市場原理一辺倒で来た企業社会の盲点ではなかったろうかと思う。
この理想主義的な「作品」と現実主義の「商品」の勝負はまだ終わったわけではない。コストダウンと意識改革、あるいは行政的配慮による解決の道筋は残されている。しかし、ここでそれについてゴタゴタ付け加え、無駄な解説予想するつもりは毛頭ない。それよりも、氏自身がCARNAに乗り替えててから、川崎和男が一層明るく知的に映り、その必要がない筆者までこれに乗ったらカッコ良くなれるのではないかと真剣に思ったことを読者の皆さんにソット告白しておきたい。

(注1)1983年、アクシスギャラリーにおいての「タケフナイフビレッジ」展。伝統工芸の活性化のデザイン事業として斬新な切り口で現代に位置づけ、そのデザインもさることながら、情報としての見事な組み立てが、知る人ぞ知る川崎和男を決定づけた。そして、このイベントは、その後のこの類の事業の在り方に大きな影響をもたらした。
(注2)メーカーは小さい会社である。しかし、大きい会社だったらもっと良いものが作れると考えるのは間違いである。同社率いる吉田茂雄氏は川崎氏の後輩にあたるという縁があり、負けず劣らずの強者である。開発に要した四年以上の歳月に、双方の情熱と我慢と分厚い白紙の請求書が積まれている。
(注3)日本車椅子工業会によれば、メーカーは凡そ25社。平成三年度の生産は手動式が十三万台強、電動式が八千五百台程度と見られる。この内、公費支給されたものが手動式で約四割、電動式で四分の一という数字がある。
※写真解説
CARNA チタンパイプ折り畳み構造・24インチアルミハニカム駆動輪・6インチゴム車輪・エアマットシート・サイズ・Mタイプで全長900、全幅610、全高850(mm)。重量12Kg。価格50万円。製造・販売(株)シグ・ワークショップ電話0462-75-6175 
※写真解説
スニーカーのような車椅子というよりも、スポーツカーのようにセクシーというフレーズが似合う。作品だから、製品もカタログも目一杯に気負いがある。しかし、その全てに何事もなかったようなたたずまいが感じられた時、この商品は社会に根付いているはずだ。

連載 デザインの検証学18

どうなる?MAC
マックのコンセプトは何だったか
世界で初めて個人ユーザー用のコンピータ、Applellで成功したアップルコンピータ社(注1)は、来たるべきがパソコンは「Easy to Use」でなければならないと考えていた。それを実現することが「今までコンピュータを使えなかった全ての人のコンピュータ」になると信じていた。
1984年に発売した同社のマッキントッシュ(注2)は、ユーザー・フレンドリーをキャッチフレーズに、これを具現化した初めてのパソコンだった。
その特徴の基本は何と言ってもプログラム言語の学習を必要としないグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)にある。WISWIYG(注3)なる概念のビット・マップ・ディスプレーは、ファインダーの中にアイコンやプルダウンメニューといったエレメントを用意して、ワンボタンマウスで操作する。これらは難解な世界に簡単で解かり易い思想を導入したという点で画期的あり、その後のこの業界に大きな影響を与えた。
それだけではない。デザイン的に見ても多くの部分で卓越していた。常識を破る縦型ボディに9インチ・モニターを組み込んだプラスチック一体成形、統一されたファインダー設計やシンプルなアイコンのフォルム、標準添付バンドルされたグラフィック・ソフト、マック・ペイント(注4)の使い勝手など、革命的なデビュー商品とは思えない熟成した完成度が光っていた。
マックは確かに発達したが、、、
こうした驚異的なパソコンとして世に出たマックも、最初は必ずしも順調とは言えない滑り出しだった。その主な要因は128KB(キロバイト)という極端に小さいメモリーにあると指摘され、これを1年後512KBに拡大、また、「レーザー・ライター」(注5)が発売されると、その存在は決定的となり、各方面の注目を集めた。
特にDTP(デスク・トップ・パブリッシング=机上編集)の世界を開いた功績は大きく、我が国でもデザイナーに対する市場が爆発的に増えたのも、このツールとしての部分抜きに考えられない。また、これが印刷業界にも大きな転換期を与えているのは周知の通りである。
この後もツールのための統合ツールとも言える「ハイパーカード」がマルチ・メディアを目指すものとして先鞭を付けたのを筆頭に、マックはパソコンというよりもコンピュータの新しい概念を次々に打ち立て続けて来た。まさにベンチャー企業やサクセス・ストーリの見本のような軌跡である。
あれから7年、筆者は発売直前の最新OS、日本語版システム7を見る機会があった。それはどのようなものか、、。百年の恋がいっぺんに冷める。マックにしてマックにあらず。少し言い過ぎかもしれないが、それに限りなく近い印象を感じた。中核のシステム・フォルダーは乱雑ではないが複雑で、「全ての人」が理解出来るものとはとても思えない。どうしたマック!いったいマックに何が起こっているのか。
「コンピュータ宿命」の中のマック
コンピュータが発達するするためには、そのメモリーを担う半導体と、中央演算装置CPUの性能アップが不可欠である。つまり、容量とスピードが入力される情報をさばく性能の決め手になる訳だ。また、逆に表現すれば、この「二つの要素を限りなく駆使したものがコンピュータである」ということになり、勿論マックもこの流れの中に描かれる宿命に変わりがない。
マックのデビュー当時、半導体チップの主流はたったの32KB。CPUも8ビットや16ビットしか供給されていなかった。しかし、現在は1MBや4MBが飛び交い、パソコンでも32ビットが当たり前の時代である。初めてのパソコンとなったApplell型はメモリーがわずか16KB。マックにおいては当初の128KBから、現在では最低でもその16倍の2MB(メガバイト=千キロバイト)。最新のOS、漢字トーク・システム7では何と8MB、さらにハードディスクにも100MBもの容量が必要になっている。
これによって確かに処理スピードは向上し、多機能になり、モノクロはカラーになり、ワークステーション並みの性能も可能になった。しかし、「人間が使う」初めてのコンピュータとして登場したマックが、この宿命とも言える高性能を身にまとって、再び「人間を使う」姿が顔を出しているのは皮肉である。
歴史が浅いとはいえ、一つのOSが十年以上に渡って第一線で活躍した例はない。また、過去のコンピュータ革命には必ず一人の天才が介在している。これから予測すれば、マックは後、数年の生命。そして、マックを超えるための天才を私達は待っている図式が浮上する。それは再び、NeXTを創設したジョブズなのか、興味は尽きない。その環境から、日本企業からは生まれないことは間違いないが、、。

(注1)二人の青年が作ったたアメリカン・ドリーム。ガレージ・メーカーから、パーソナル・コンピュータの概念を確立し、わずか数年で大企業アップルコンピータ社を築いた物語はあまりにも有名である。中でも、二人の青年のうち、スティーブ・ジョブズのパソコンに対する理想は貪欲で、結果的にその激しさが自ら築いた大企業の中で異質となり、同社を追われNeXTコンピュータを作る。この二つの物語はまだ終わっていない。
(注2)その二年前、MACの原型となった「リサ」を発売している。しかし、価格が当時のパソコンの二倍近い一万ドルと高価だったため失敗作に終わった。これを見て、マックはリサの約25%の価格に圧縮され、格張性を完全に排除したクローズドなスタイルで登場した。
(注3)What you See Is Wahat you Getの略称。つまり「入力されたものは、あなたが見ている通り」というもので、モニターの画素数とプリントアウトの一致に始まり、やがてDTPの核心的な要素へと結び付いて行く。これは現在でもマックの大きな特長となっている。
(注4)ハイパーカードの作者でもある天才的なプログラマ、ビル・アトキンソンが作ったエポックメイキングなお絵書きソフト。この考え方が及ぼした影響も計り知れなく、同様な他社製品はもとより、簡単なワープロから本格的なCGソフトの操作にまで深く浸透している。
(注5)レーザープリンター。300dpi以上という精緻な性能もさることながら、「ポスト・スクリプト」というページ記述言語を搭載したことが大きく、関連ソフトの開発を誘発してDTPの世界を切り開いた。
※写真解説
1985年7月に初版発行された「Macintosh」阿部摂子著(誠文堂新光社刊。「感覚派のためのパソコン、マッキントッシュ」の幅題が付く。冒頭に「マックを初めてのパソコンに選べる人はラッキーです」とある。もう一冊は同じハウ・ツウものの最新版「マックライフ・バイブル」(BNN社刊)。この厚み!と中身の内容は、如実にマックの変遷の歴史を物語っているではないか。
※写真解説
「人類の長い歴史に、記念すべきひとつのマイルストーンが刻まれようとしています。」と、最初のマックのカタログは断言している。英文ワープロとマックペイントがバンドルされていたが、日本語は入力出来なかった。

連載 デザインの検証学20

玉虫色のマークll
売れに売れたトヨタのドル箱
トヨタのマーク‖の三兄弟が四年ぶりにモデルチェンジし、七代目となった。「巨人・大鵬・卵焼き」的に表現すれば、今や「紀子様・若貴・マーク‖」とも言えるほど日本人の大好きなクルマである。しかも高級車でありながら、毎月三万台ほどの販売実績を誇る。これは、同社の世界最量産車である大衆車、カローラに迫る数字だから驚いてしまう。
こんな怪物のような商品は世界中探してもないだろうと思うのだが、自動車評論家は、このマルマ達に高い点数を与えて来なかった。こうした評論家はレーサーなどの飛ばし屋上がりが多いから、極限のハンドリングやブレーキ性能、足回りなどについてはとても厳しい。また、すぐメルセデスやBMWを参考例に引っ張り出し、それらとの比較が得意中の得意としている。
しかし、マーク‖はこうしたものとは無縁の世界で考えられ、支持されてきた、ジャパン・オリジナルを最も強く感じさせるクルマなのだ。この辺り、アメリカでは大成功したアコードやレジェンドが国内では販売不振で、脇役と思われたインスパイヤが売れてしまったことと結果は全く逆である。
狙い通りの実績をほぼ達成し続けているトヨタのクルマ。ここ2〜3年の新車に触れると、まず、その個々の品質の高さに思わず溜息が漏れてしまう。しかも、徹底してマーケッティングされた商品性の高さで、メーカーとしての主張は極めて低く抑えられている。特に輸出されない今度のマーク‖は、「日本人」そのものの心が投影された観が強い。
玉虫色の選択巾を持つクラスカー
マーク‖はトヨタのスターレットからセルシオに至るまでの、乗用車クラスカーのラインアップの上級に設置されている。特にカローラ、カリーナ、コロナという下級車種と、すぐ上のクラウンとのグレード感の造形的な演出は見事である。しかも、金太郎飴といわれるトヨタ調フォルムを一様に身にまとっている中での差別化だから、その力量たるや恐ろしいものがある。
この車種ラインの中でマーク‖が好まれるのは、あの一億総中流意識によるところが大きいのだろう。よく例えられるように、社長や専務がセルシオやクラウンだったら、遠慮なく、このクルマを選択出来る。たとえ部長がコロナだったりしても、二千ccや千八百ccでお茶を濁す手も、このクルマには残されている。
NSXホンダは無理でも、せめて280馬力のGTRスカイラインが欲しいけど、カミさんが許さない。こんな時は二千五百ccで同じ馬力のスゴイのがある。黙っていれば解からない。交差点で横にGTRが止ったら、「オメーには負ねぇヨ」とつぶやく楽しみがあり、控えめな紳士には三千ccの220馬力もチャンと用意されている。
しかも、実際使うシチュエーションで、家族でレストランに行ったり、クラブ活動で遅くなった娘をに迎えに行く時でも恥ずかしい想いをすることはない。お隣りがマーク‖だったらチェイサーで若さをアピールする。走行距離が延びるユーザーがディーゼル車に乗ってもマーク‖の誇りが消える訳ではない。
日本人が大好きなカーデザイン
日本人のマーク‖なのか、マーク‖の日本人なのか。そのデザインも勿論、日本人に好まれるものでなければならない。それは初期モデルの頃に見られた挑戦的で、いたずらに豪華なデザインは影をひそめ、四代目あたりからの上品で落ち着いたものが継承されている。
それは、やや長いフロント・ノーズに、これまた長いリア・デッキ、そして低い車高。加えて意外にもスモール・キャビンが基本プロポーション(注1)である。パッケージ・セダンなる言葉が流行し、広い室内が理想と考えられがちだが、日本人はなぜか、そうしたインテリアが好きでない。居住性を犠牲にしても、低いルーフのカッコ良さが優先するのである。(注2)
その代わり、欲張りなのは室内装備である。日本のハイテクを全部結集し、メルセデスさえも圧倒してしまうような荘厳さ。外見に付かないから、ここではセルシオやクラウンにも遠慮が感じられない。しかも、ユーザーのインテリア・センスを見切ったような「旦那仕様」(注3)も随分と消えかかっている。
これだけ立派になってもマーク‖軍団のデザインは大きな感動を伴うものではない。最後まで「普通」の中に心憎い情緒的な計算と演出がなされているのだ。結果的に「同じ」でありながら少しだけ「違う」この姿、目立ちたくないが良く見せたい日本人の心を見事に具現化しているように見える。(注4)

(注1)ホイールベースが50mm延長された2730mmはクラウン・ロイヤルと同値。これによって室内長は115mm延びているが、実際の印象はさほど広くない。エクステリアはあくまでスモールキャビンが造形処理されている。
(注2)それでも15mm高くなって、そのまま室内高15mm拡大に使っている。しかし、1390mmという数値は3ナンバーとしては異常に低く、今回トヨタとして最も意識したと思われるディアマンテより20mm、さらにVWゴルフより50mm近く低い。
(注3)つまり田舎のオジサンぽいデザインで、エンブレム類とシートのファブリックに残像がある。この二つだけは日本人の平均的センスを以てしてもダサイと感じるだろう。特にリアトランクに付いている車名部は全体の仕上がりの中で明かに異質。
(注4)割安な価格、大きくなっても最大120Kgも軽量化した成果などはアピールせず、ひたすら日本人の情感に訴える。ただ、時代の要請であるリサイクルや省エネなどに対して、大トヨタとしての明快な解説や提案が欠けているのが残念である。
※写真解説 
マーク‖の外観。全長4750mm、全幅1750mm、全高1390mmは全長で10mm短いが、40mm巾広くなって完全な3ナンバーサイズとなった。嘗ての大きく見せる作為は見られない素直な造形。全体に丸くなって、前のモデルより小さく映る。
※写真解説
マーク‖の室内。豪華さと乗り手の誇りを手堅いデザインと緻密な製造技術によって見事に表現されている。斬新さやハイセンスとは無縁だが、「あなたは今、マーク‖を運転しています」という安心感をうまく伝えている。若者がここに座っている姿は見たくない。


連載 デザインの検証学21最終回

デザインは
どこへ行くのか
デザインと、ジャーナリズム
本誌がこの号で休刊になり、この連載も最終回である。連載が始まったのは本誌が月刊になって二号目からで、この時期からバブル経済が崩壊しはじめた。今、デザイン界は大不況で、反省やら危機感やらが飛び交っている。このバブルがあぶり出しとなって色々なものが見えたことは事実だった。何かが終演を告げ、何かが始まろうとしている。楽観も悲観も意味がない。時代を正視することこそが来たるべきデザイン活動に必要なことなのだ。
何となく弱気になってしまったデザイン界で、昨年夏の東京・池袋セゾン美術館で開催された「安藤忠雄建築展」はすこぶる熱狂的であった。展示された作品のボリュームや見せ方の質的なバラエティーさは驚くべき力量があり、会場全体が一大作品のように映った。そして、来場者の数の多さと、その老若男女は勿論、ミーハー風な女の子から、学者風なタイプまで至る幅広さは、完全にこれまでの建築デザイン展の常識を覆すものがあった。
安藤忠雄はとにかくマスコミによく出る男である。建築誌は当然だが、TV出演や新聞のインタビュー、雑誌のコラム、そして各種の展示会開催等など。氏はある建築誌で、事務所の作業の半分はこうした時間に使い、実際の建築設計は残りの半分のであると語っていた。社会とのコミニケーションは、こうした行為によってのみ可能であり、建築設計はそのメッセージの材料を作成することであると捉えている。なるほど、その成果は先の会場の賑わいに確かに繋がっていた。
しかし、忘れてならないのは氏を建築界に送り込んだジャーナリズムである。安藤忠雄のデビュー作品は有名な「住吉の長屋」とされる。一般的な価値観からすれば、狭く、冷たく、不便以外の何物でもない、この小住宅のコンクリートの箱。ここに詰められたメッセージや手法の新しさを読み取り、それを賛えていなければ、今日の安藤忠雄はなかったかも知れないのだ。
これと似た関係は、勝見勝(グラフィックデザイン)と亀倉雄策、森山和彦(ジャパンインテリアデザイン)と倉俣史朗にも見られる。ここでは個人的な才量同士がものをいった結果だが、ジャーナリズムとデザイン活動の相互関係が双方に有効にはたらいた好例であろうと思う。ここで作られた潮流はまだ流れを止めていない。
デザインジャーナリズムの悩み
日本は良くも悪くも世界で最もデザインが発達した国である。デザイナーの数も多いし、それに関連した出版物も(他の国と比較すれば)大変な数量を誇っている。それらを歴史的な観点から眺めると建築関連が最も長く、質量ともに申し分ない。権威の在り方も概ね妥当なものだろうと感じる。
グラフィックデザイン関連も国際的に見れば飛び抜けたものがあり、何といってもスター級のデザイナーが各世代ごとに目を光らせているから、安定度も群を抜いている。とにかくクライアンツよりもデザイナーが前面に出続けている間は大丈夫である。問題はインテリアとプロダクト関係ではなかろうかと思う。
それらの難しさを要約すれば、媒体にするためのビジュアル化と、作品性に対する認定の障害である。特に後者の、メーカーの商品なのか、デザイナーの作品なのかという、昔から続いている議論は厄介だ。家具や照明器具であればエレメントも少ないからデザイナーの範疇で統括出来るが、複雑な家電や自動車になると手続きだけで相当な分量になるから作品性の確保は厄介になる。ましてクライアンツは生産性や営業的な要素を優先するから益々純粋性は失われる一方なのだ。
デザインを導入しての経済的な効果への期待。これが先行する我が国の慣習はデザインジャーナリズムを歪めたものにしてしまう。これは排金主義やマネーゲームに見られた資本主義社会の病根である。「いくら儲かるの?」「なんぼになる?」。デザイナーとして聞き飽きた言葉だ。建築やグラフィックデザインの世界が構築したように、ここを抜け出さなければ純粋なデザインジャーナリズムは開かれたものとならないだろう。
日本株式会社のデザイン感覚
しかし、このプロダクトやインダストリアルデザインの方が他のジャンルより世界的な関心を集めている。なぜかと言えば、これらのデザインが最も経済的な効果をもたらしたからである。日本のプロダクトデザインが、製品の品質も高いが経済効果において一番優れている。これは世界が認めるところなのだ。それは次のような経緯から始まった。
日本は戦争に敗れ、戦後復興が始まる。焼け野原ではヤミ市が横行し、食糧難や物資不足が世の中を支配する。そこから立ち上がるには産業による外貨獲得が唯一の方法として輸出振興が政府によって旗振られる。ノウハウなどあろうはずもなく、手元にある外国製品のコピーが数少ない商品開発手段だった。小さいオモチャからカメラまで、当時は真似ばかりだった。結末にそう時間はかからない。メイド・イン・ジャパンへの国際非難が高まる。そして、通産省が腰を上げる。この間、わずか十年である。
現在でも通産省のデザイン行政は検査課とデザイン課が一緒で、検査デザイン課になっているが、偶然にもその名の通り、デザインに検査が必要だったのである。そして、主流であり続けている民間デザイン機関を含め、各種団体やデザイン関連誌、行政部門等はこれから僅か5年未満の1960年には全て出揃っているから、ここの流れは猛烈であったことが理解出来る。
葛藤はあった。特に工芸指導は戦前から行なわれていたから、そうした人達を中心とした純粋デザイン派とでも呼ぶべきグループと、産業奨励型デザイン派の闘い。しかし、時代はそうこうする内に、アッと言う間に高度経済成長社会へと突入し、そうした声さえも打ち消されてしまう。それ作れ、やれ売れの大号令。「消費者は神様」を旗印に、マーケット至上主義で猛烈に突き進む。
メッセージ不能なデザイナー
「消費者が神様」であるから、まず商品のクレームを無くす、つまり「問題のない」商品作りが徹底しているのが特徴である。そのためには合議制で提案し、問題点を一つ一つ消去する。こうすると極端に故障が少なく、安価な商品が出来上がるが、デザイナーが個性を発揮する余地は残される訳もなく、どこにもいない誰かの好みを代弁する翻訳的デザインがその使命として深く認識するに至るのである。
このようにプロダクトデザインはブレンドされたデザインのメッセージであり、そこにあるフォルムはマーケットの要請として代弁された姿であり、あるいはメーカーとしての商品差別の手法に過ぎない場合が多いことに気づく。インダストリアルデザイナーの話を聞くと、自分の所属する会社や売れた売れないの類の話が多いのは、こうした企業経営的な観点の枠から脱し切れず、経済性の物差しに浸り過ぎている現状を証明している。
こんな話ばかりではデザイン記事には仕立て上げることは難しい。経済誌や、経営雑誌のデザイン欄に登場するのだったら適当かも知れない。しかし、デザイナーがデザインの重要性を別の要素とすり替えて考えているようでは、それこそ話にならないのだ。
アゲインストのジャーナリズム
我が国でもっとも権威がある「毎日産業デザイン賞」は1955年に創設され、その後1976年に現在の「毎日デザイン賞」と産業の二文字を取った名称に改めている。これは正しい判断である。産業優先社会が批判され、生活大国を目指そうとする日本において、早々に「産業のためのデザイン」の矛盾を掴み、その見識を示したことは大したものである。
しかし、実際はデザイナーが「作品」などと言えば、デザイン・フォビア(恐怖症)症状さえ起こす企業さえ少なくない。一部のエディターにさえ「作品」という言葉自体に深い嫌悪感をあらわす人がいる有様なのである。だから、依然として社会の大きな潮流は産業に奉仕するデザインである。そこにバブル崩壊だから、ジャーナリズムには、まだまだアゲインストの風が強く吹いている。
故倉俣史朗の作品は素晴らしかった。しかし、目の前にある作品がどのようなもので、なぜ感銘を与えるのか。そこには、どのような意味が隠されているのか。この難題を見事に切って語って見せたのは多木浩二氏であった。デザインされたフォルムの言語への置換。多木氏の哲学を摺り抜けた見事な評論である。ここでは価格や、経済効果についての話は一切出てこない。デザインジャーナリズムの原点である。
この多木氏の示しているものは、ジャーナリズムの姿勢と同時に、その能力の問題についても示唆するものがある。例えば「建築」と「デザイン」を比較すると「建築」ジャーナリズムの方がキャリアは上である。だから建築家とジャーナリズムの力関係がかなり拮抗している。しかし、一般的にデザイナーとジャーナリストを比較してキャリアがデザイナーが勝っている場合が多い点に不安材料がある。
ジャーナリストはその世界のあらゆる意味で頂点に立つ才量や見識を持っていなければならない。なかなか人材が育成されないのは社会がそうした価値観を持っていなかったためで、学者がいない大学みたいなものである。
変革を迫られているデザイン行政
繰り返すが、デザインの文脈は「経済」にある。このことは全ての日本社会の価値基準でもある。そして、それを誘導したのは通産省を中心にしたデザイン行政である。実際、欧州のデザイン教育や、生産メーカーも日本を参考にしたいるケースが多い。
しかし、その大義名分となっているGマーク選定制度の思想ひとつとっても戦後の産業奨励の価値観からは一歩も抜け出していない。そこにあるデザイン哲学はあまりに貧しい。ラッシュ・アワーの寿司詰め電車がGマークで、ウサギ小屋にGマーク商品をたくさん揃えたどころで何の意味があるのかと言いたくなる。産業レベルでデザイン行政を行なっているから、このような矛盾が生じるのである。
産業を取り巻く環境は大きく変わっている。ゴミの問題は、何かを買うとき何かを捨てなければならない状況に対する最悪の解答である。国家的な功績にも賛えられた製品輸出も、今や国際的な視点からは悪者にされる要因にすらなっている。現状の生産と消費の構造からは内需も外需も嘗ての理想像からはほど遠い。ここに働きかけていたデザインの概念については何をかいわんやである。
新しい時代のデザイン像へ
時代の最先端を走るホープだったインダストリアルデザインも所詮大量生産、大量消費の手法に終始していた。新しいとされた思想は今や時代の後塵を排しつつある。国家的な奨励から始まった今日のデザイン隆盛も、こうした観点から見れば新しいカタゴリーや手法についての奨励をスタートさせなければならなくなった。
こうした背景を受けて、通産省では今後のデザイン政策を探るため、諮問機関としてデザイン奨励審議会を設置、今年の6月までに中間報告をまとめるという。サイクルの短いモデルチェンジなどのデザイン過剰が審議の中心になりそうであるが、問題を産業界やデザイナー像に向けるだけではなく、行政としての自らの足元も照らし出してほしいものだ。
通産省以外の建設省や厚生省、環境庁、文化庁へのデザイン行政機関の新設や強化と、謦咳化された地方のデザイン機関を廃止し民営化。この二つをセットにしなければ意味が薄い。実現すれば我が国のデザイン行政は一挙に厚みを増すはずである。これにデザインが関わる生産や建築の法の整備、エコロジーや環境問題としての規制の強化が新しい展開として必須のものとなるだろう。
すなわち、国家目標であった経済や産業発展は生活向上の手段が目的に摺り変わったものという再認識が大事である。ここから色々な大切なものが見えてくる。色々な生活環境の疑問も明確になる。新たにデザインされるべき対象も浮上しよう。産業側からの受注一辺倒だったデザイナーの業態も滑稽に映るはずである。
デザインを取り巻く全ての権限と責任を整備し、社会や環境との関係を抜本的に見直すこと。そして、産業経済の属性としての存在から、逆に産業を活用しリードする豊かな感性と知性がデザインに求められる時代がやってきたのである。

「グラフィックデザイン」講談社―勝見勝がカリスマ性で編集した、時代を超えて世界の頂点に立つデザイン誌だった。今見ても信じられないほどのクオリティーと見識がある。日本のグラフィックデザインのレベルの高さの基礎を作ったものとして評価出来る。国際性も高く、デザイン誌のあるべき姿を早くも完成させていた点がひときわ光っている。こうした理想的な編集が可能だったのは、当時のグラフィックデザイナーの質がすでに高かったことと、彼らの意欲的な姿勢が支えていたことは言うまでもない。太鼓判を押したくなるような第一級のデザイン誌として印象深い。
「デザイン」美術出版社―1955年に創刊された「リビングデザイン」を1959年に改称、総合デザイン誌として信頼を集めた。中でも、1960年代後半の「人と作品」シリーズは、グラフィック・デザイナーの作品性を奨励し、スター・デザイナーの誕生を促すものであった。グラフィックデザイン誌の権威的な編集に対して、柔軟でトレンディな内容は横尾忠則や倉俣史朗を早期に発見し特集として紹介するなど、新しさには敏感だったが、季刊になって、それが過ぎたのか、やや雑然とした印象になってしまった。
「アイデア」誠文堂新光社―創刊が1953年だから、満四十年を迎え、現在、最も長寿を誇っている。前の二誌と比較すると昂揚は少なく、一貫して坦々とした編集である。装丁の美しさも継続されているが、その時代の頂点を極めようとする気負いはない。編集内容も、エスプリを抑え、万遍なく、あくまで普通のスタンスとしての姿勢を崩さないイメージで、大人の編集を感じさせる。60年代の日宣美特集号は会員と入選作品の全部を掲載し、熱いデザインの時代を伝える役割を果たした。あの頃と比較すると、さすがに冷めた印象を拭えないが、とにかく続いていることに拍手!
「工芸ニュース」丸善―1932(昭七)年から1974(昭四十九)年まで四十二年間続いた。編集が戦前の商工省工芸指導所から戦後、通産省の工業技術院(製品科学研究所)へ移るなど、場所や発行元が転々としていて、この本の苦労が解かる。民芸からコンピュータ・グラフィックスまで幅広い内容だったが、大筋は工業デザインの振興にあった。その情報収集力は群を抜き、実際の指導員が執筆にあたったリアリティーが特長だった。1972年の「日本の工業デザイン」特集は、まさにその力量がいかんなく発揮された代表的力作として一見の価値ありである。
「デザインニュース」日本産業デザイン振興会―編集も1969(昭四十四)年に設立した日本産業デザイン振興会。ここは通産省の管轄にあるから、工芸ニュースの役割を引き継いだ格好になっている。中心はグッドデザインの奨励としての役目に添ったもので、時として世界のデザインブレーンからの寄稿は難解ながら貴重な特集を提供する。しかし、多く登場する企業レポートに見られるデザイン観はさすがに古く、デザイン運動というよりも現状報告的な色彩が濃い。硬直化しまいとする姿勢は伝わって来るが、「行政」の衣は脱げるべくもなく、「産業経済界的な真面目」さが売り物。
「ジャパンインテリアデザイン」インテリア出版―当初は「インテリア」で1955年に創刊された。インテリアの世界を住宅室内から解き放ち、前衛的なショップインテリアに焦点を与えた功績と、産業界から一線を画した家具デザインの紹介には目を見張るものがあった。特に1970年代の倉俣史朗やイタリアのラディカルデザインの活動記事はアジテーションに近い過激さを感じさせ、その後のジャパンインテリア派デザイナーの誕生をもたらす。編集長であった森山和彦の嗅覚の鋭く、才気溢れる内容は、バックナンバーを読み返しても時代が的確に表現され、驚かされる。
「イコン」メディアギルド―ジャパンインテリア休刊の後を継いだかたちで、編集員やカメラマンがそのまま参加して1986年に創刊。そのキャリアは見逃せないものがあり、建築とインテリアの両方を中心にカバーしながら、類似した他誌ではみられないユニークな記事もあった。しかし、ジャパンインテリアより国際性が薄れ、同人誌的な傾向だけが残った。インテリアデザインの発表媒体として大いに期待されたが、約5年の短命に終わる。本敗れてエディターあり。デザイン界の財産として、再び彼らの活躍が用意されることを祈りたい。
「デザインの現場」美術出版社―別冊「美術手帳」から独立して隔月刊となった異色のデザイン誌。あくまでデザイナー自身にスポットを当て、制作現場を見せるような誌面はおもしろい。やや若者向けに振った内容も親しみやすい。特集の切り口を、姿を変え、品を変えて様々に見せる英知はなかなかのものだ。5年に一度くらい、総集版のようなものを別途取材で出版したらおもしろいと思う。執筆陣の奥行きもあり、読んで飽きさせない分量も充分である。デザイナーの人選をもう少しシビアにして、辛口のまとめを望むのは野暮というものか?
「にっけいでざいん」日経BP社―創刊されて5年だが、購読者の幅広さと発行部数の多さも手伝って大御所的な存在になってしまった。少々厳しい批評をさせていただくと、全員素人か、それに近いキャリアで編集をスタートさせているせいか、デザイン全体の掌握力が未だに弱い。それに、やや気負い過ぎる強引さも鼻につく。特集関連以外の普段の取材力も散漫で、保守的なデザイン観も魅力に乏しいものに映る。しかし、アンケートなどの集計力や、デザインの社会問題的な視点のジャーナルな記事は評価出来る。良くも悪くも日本的なデザイン観が色濃く投影されている。若いデザイナーは別の本を読むべし。
「AXIS」アクシス―あのAXISの「AXIS」である。この本は、まずここに説得力が存在する。民間(ブリジストン)のデザイン振興を肉付けし、情報として立体的に組み立てる手段として明快さがある。誌面も美しく、DTPをいち早く取り入れるなど、時代に対する先見の明も確かだ。国際性も充分である。だが、これだけ良い材料が網羅されていても、意外と別の見識が邪魔をするのか、取りこぼしが多い。したがって、あくまで副読本であり、デザイン壮観図を把握するにはメインディッシュたる本が座右になければならない。
「FP」学習研究社―本誌の魅力は、池亀拓夫と清水文夫という二代に渡った編集長が背後に見えたことだった。日本では案外こうした点はアノミマスになりがちである。文庫本を買う時、タイトルだけで作者名を無視することはあり得ない。「あの池亀さんがネ。」「ナルホド清水氏だったのか。」ということが大事なのだ。それぞれの時代に相応しい編集長を迎える。そして、その人物が新しいデザインを奨励し、次世代を築いて行く。これが理想である。しかし、結果は結果だが、この一つの結果は同時に何かの始まりになるはずだ。落胆することなく、それがどのようなものか期待することにしよう。
「室内」工作社。旧名は「木工界」で、創刊は1955年の古参。発行部数も多く(推定四万部前後)、読者の幅も広い。そのためにコラムなどの執筆者はこの本の分類を超える厚みがある。取材力とスピードはナンバー・ワンで、網羅される情報も展示会、新聞記事の抜粋、インタビュー等など万遍ない。若い愛読者は途中で編集長があの山本夏彦氏だと気づくはずだが、最後を読まなければ本の内容とは関係がない。デザイン嫌いを卒業して、逆にそれを軸とした構成は、同時代性のスタンスを保とうとする姿勢の現われか。デザイン誌には分類されないデザイン誌。
「ポートフォリオ」誠文堂新光社―アイデアの別冊的存在で、どちらかといえば若者向けのデザイン誌。適度なサイズと厚みの中には美しいエディトリアルデザインが展開され、読みやすいのが特色である。デザイントピックスやコンペの情報も丹念に収集、紹介され、内容もアイデアよりは総合デザイン誌的なスタンスを保つ。面白いものはドンドン登場させる点は柔軟で、楽しい誌面作りに反映されている。しかし、それぞれのジャンル的な視点から検証すると、グラフィック以外は潮流の仕組みを踏まえた編集見識について、やや力不足を感じさせる。
「デザイン批評」風土社。第一次デザインブームだった1960年代後半には論客がすでに存在した。グラフィックデザインから粟津潔、木村恒久氏等が、建築からは原広司、評論家川添登、美術から針生一郎や中原佑介、多木浩二氏、そして、これに泉真也、小松左京氏等が加わってワイワイ・ガヤガヤするのが好きだった。寺山修司や横尾忠則、黒川紀章、菊竹清訓も好きだった。若々しく、元気だった。好き者が集まって編集し、好き者が書く、この本はそんな内容であった。一癖も二癖もある連中だが、腹黒いヤツはいなかった。いい時代だった郷愁のようなものを感じる本である。
「SD」鹿島出版会―SDはスペースデザインの略だから、建築誌だけでは物足らない人には最適の本である。安定して落ち着いた編集で、認知されている題材の特集や、チョットだけマイナーなデザイナーに焦点を与えるのが得意である。鈍感でも敏感でもない。知性に溺れることも、感性に流されることも適当な域を越えない。この本に登場することが常識となり、そのまた逆に非常識な冒険を起こさないスタンスが定まっている。極端な快感と出会えないが、鳥肌が立つような嫌悪感も目にすることはない。

年表解説
デザイン誌の創刊ブームとなった1950年代後半の勢いにはスゴイものがある。それは十年前のパソコン雑誌のようなものだったのだろうと想像される。それも東京オリンピック前後の高度経済成長期あたりから様相が変わり始め、純粋性が失われて衰退の坂道を下るが、その谷底は70年代後半となる。80年代に入って再び頭をもたげるが、ここでの断絶はエディターやライターのキャリアも断絶させる結果となり、ジャーナリズムの体験的、あるいは歴史的な分析力に影響を残す。デザイン的な情報や記事は飛躍的に増えている。特に若者にとってデザインは難しい専門的な概念とは無縁で、ごく自然なものだ。しかし、彼らが読む雑誌をめくれば、あまりに間違いが多い点は気持ちが良いものでない。こうした一般の質を向上させるためにも、専門誌が社会的に独自のポジションを獲得して欲しい。それは同時にエディターが社会的にその価値を認知される、ということなのだが、、。





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