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デザイナーのビジネスモデルとは
○厳しい工業デザイナーの現実

工業デザイナーとか建築家は黙って仕事を得られる仕事ではない。
メーカーとか、工務店に入社すれば仕事はあるが、フリーランスになると、途端に仕事
を得ることが困難になる。工業デザイナーが看板を出して成功する確立は1%未満以下
で、その上で作品を残せる確立は、そのさらに1%程度、というのが偽らざる感触であ
る。脱サラでラーメン屋にでもなろう、と言っても成功率は10%を切り、5%と厳し
い数値が上がっているが、工業デザイナーはその比でない現実を知るべきだろう。

私は、よく「三原さんだけが面白い仕事に恵まれているっ」と言われました。しかし、
時間軸で見ると、最初は誰も見向きもしなかった業種やメーカーだったり、素材だった
りで、「そんな仕事よくやるなぁ」と皮肉られたものです。そこを発想の転換でテーマ
を与え、Give & Takeで例えれば、Takeを先行させることで相手に信頼
を得る方法でデザインも理解してもらう順番でした。たいてい小さな企業であればBI
(ブランドアイデンティティ)やCI(コーポレートアイデンティティ)が未整備だっ
たり、発表する力、段取り、製品の陳列、製品撮影が疎かだったりします。それらが、
如何に絶大な効果を上げる力を持っているかを立証する能力が工業デザイナーに求めら
れているということです。製品、商品デザイン力より、企業をデザインすることです。

○工業デザイナーは小説家に似ている?

始めてみると、工業デザインは「小説家」に似ていると思った。
仮に東京、渋谷のスクランブル交差点に看板を出しても工業デザインも小説家も注文は
来ないだろう。
書きたいと思う気持ちとか感性が先行して、それを社会に示さなければ出版社も注文の
しようがない。
このことを理解してグループ展として発表活動に重点を置いた。この部分では目標に到
達出来たが、次の課題も出現した。新規性の高いものは生産や販売の問題も絡んで来る。

○工業デザイナーは「開拓者農民」に似ている

工業デザイナーは「開拓者農民」に似ていると考えるようになった。
土地を見て、土を耕し、気候風土に適した種を捲く。
捲いた後も、水をやり、肥料を加え、雑草を取り除き、時にはまびきもする。
こうして、ようやく収穫期を迎えることが出来る。
出来たものを購入希望者に渡るまでの道筋の理解も必要になる。
そして、信頼されるための情報発信も欠かせない。
この間、誰一人として肩代わりして考えてくれる人はいない、、。

最初から獲物を得ようとする肉食系狩猟派は全く工業デザイナーに向いていない。
「結果が全て」とする捉え方はあまりにも狭く片寄った認識である。
獲物を捉えて、そのむ横で横取りばかりで喰い繋ぐハイエナと一緒だ。

工業デザイナーの在り方を正しく理解されたい。


○仕事(デザイン)をする形を作る

事例としてお3人をあげておきたい。


彫刻家 伊藤隆道さん+MOV工房

レイモンド・ローウィの先行して特許取得
世界で初めて工業デザインを認知させたフランス生まれのローウィは工業デザインだけ
でなく、グラフィックデザインや建築、インテリアなど幅広く活動したことで知られ、
晩年にはNASAに向けたスケッチも発表されている。工業デザインにおけるローウィ
のやり方は、まず考案したデザインの特許を取得した後に企業にアプローチする形で、
これは1930年代からだという。我が国おいては、この手法が広く認知されていない
が、タバコ「ピース」のデザイン作業が沢山の考案デザインを示している点は、日本に
おいても定着している。


伊藤隆道(1939−)+MOV工房

1962年−東京藝術大学卒業しているが、その卒業する一年前の1961年に東京、
新宿区にMOV工房を創立している。「あったまイイ〜」!と思った。創造する前に作
り方を確立しておく。従来にない発想である。結局、氏の作風はMOV工房そのもので
あり、制作と製作の遊離は見られない。


倉俣史朗さん+イシマル

イシマルは施工会社であり、オーダー家具も手配出来る。工房は持たないが手配、発注
力は絶大でイシマルは倉俣事務所の隣に拠点を持ち、デザインの実践部隊であり続けて
いる。倉俣史朗の裏舞台であり、黒子であるイシマル(石丸隆夫)を理解すること抜き
に倉俣デザインの謎は開明出来ないだろう。メディア関係者も、表面的な功績に対して
美辞麗句ほ並べるだけでなく、真にデザインを学ぶ若者に他山の石となる解説を願いた
い思う構図である。


奥山清行さん

すごい人生。まさに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」である。
美大を卒業して米国に渡り、アートセンターに入学、卒業。GMに入社しているから、
普通に考えれば、ここまでで大成功だ。ところが、GMを退社してポルシェに入社、再
びGMに戻り、アートセンターで教鞭までとっている。そして、三たびチャレンジ精神
が沸き上がりピニンファリーナのデザイナー募集に応募、500倍近い難関を経て採用
され、日本に戻るまでにエンツォフェラーリのデザインを手掛ける幸運に恵まれる。こ
れだけの経歴だと恐くて採用出来ないが、氏のお人柄も大いに貢献していると思う。出
口しか見えないデザイナーには大きな刺激になったし、今後の教育にも大きな影響を与
えたと考えたい。
森 正洋さんと白山陶器 氏は1956年、白山陶器に入社した後、1978年に森産業デザイン研究所を設立し ている。経歴だけ見ると独立して白山陶器を離れた感があるが、一貫しているのは同社 の商品開発を継続していたということである。森正洋が白山陶器であり、白山陶器が森 正洋。コインの裏表の関係にあり、この間、約半世紀、実に多才で変化に富んだデザイ ンを提供し続けたことになり、おそらくギネスブックものだと想像する。しっかりと、 自分のデザインを具現化するメーカーを支え、その中で自己実現を果たして行く形。お 見事というしかない。 ※「工業デザインの実務」清水千之助著1964 三原昌平の「セルフプロタデクト」 受注を待たず、プロトタイプを制作して発表する。この90年代に流行ったセルフプロ ダクトの先がけをグループ展で実行した。特に、時計のムーブメント解放に繋がった常 識を撃ち破るデザインは各方面から注目を集めた。注文の前にプロトタイプを作る行為 は簡単でない。よほどの信念がないと続かないし、メーカーに対しても説得力がない。 社会に対する疑問。形に対する疑問。これがない人は全く工業デザイナーに向いてない。 「デザインの仕事が無い」、「デザイナーになりたい」。けれど、何を?となる。 どんなデザインがしたいのかを考えず、一方的にデザインをしたいと言っても社会はそ の期待に応えてくれるほど親切で、甘くない。30才過ぎて同じ悩みだったら、メーカ ーに雇ってもらって会社員になる道しとかない。後5年猶予を与えて、35才までに、 それを現実のものに出来ない場合は9割以上の確立で一生、同じ繰り返しだろう。これ は今迄、色々な人を見て来た率直な感想である。 私はフリーになって2年未満で中小・零細企業の可能性にかけ、それ一本に絞る営業活 動を心掛けた。 最初に気付いたのは企画立案がなく、非常に単純な発想で商品開発をしているという事 だった。逆に言えば、自分自身のデザイン構想を企業商品企画に重ね合わせれば双方に 合理性が生まれることになり、まず相手企業の理解と、企画立案力を高める努力をした。 そこで思い出したのは東京造形大学のインダストリアルデザイン専攻で中心的な教育を 担っていた清水千之助(1929-1987)先生の授業だった。その一端を書籍化したものが 「工業デザインの実務」である。 簡単に説明すると、工業デザインが企業生産活動において、どのような位置付けがなさ れるべきか、ということで本書は構成されている。何か面白いことが書かれているわけ ではなく、授業もそうだったが、実に無味乾燥したものである。理解するには忍耐力が 要る。何かのためのハウ・ツゥ本ではないから、実践力が養われる訳でもない。そのま までは何の役にもたたないのである。つまり、血となり、肉にするには内容を理解して 応用する必要がある。しかも、ケースバイケースで。 私は結論を得た。それは「Give & Take」なんだと。 自分が望む前に相手(企業)を理解すること。理解出来なければ貢献は出来ない。まず 先に基本的なことで貢献し、その枠の中で自分のデザインを考える。そういう事だと思 った。この境地に到達したのは卒業して6年目のことだった。 これは開発事例のない領域の仕事の成功に繋がったし、今迄、着目されなかった企業の 活性化にも役立った。「三原だけが面白い仕事をしている」謎解きはこれだった。 しかし、これは方法論のようなもので、デザインの本質とは無縁である。 「必要は発明の母」というが、「デザインの基本は疑問」だと思う。 普段、何も疑念を抱かず、何の不満も持たなければ新しいデザインは不要である。そこ に何か問題があるからデザインが必要となるのであり、ただの空想や妄想することでは ない。素直に思った疑問を大切にして、それをデザインで解決出来ることがデザイナー に求められる能力になる。それがプロトタイプであり、企業の商品企画を導くセルフプ ロダクトにあたる。




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