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私と「2001年宇宙の旅」
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社会人になる(つまり卒業)2年前の起こった2つのこと
販売のため、利益の直接的目的のデザインへの疑問幼少から漠然と絵が好きだったり、クルマに興味があったりした中で高校1年生の時にイタリアに カロッツェリアという自動車デザイン専門の工房があることを知り、次第にカーデザイナー志望、 そして、それを学ぶためのインダストリアルデザイナーになるために美大受験へと向かった。 運良く、東京造形大学に入学するも、当時(1966年)は大デザインブーム下にあり、印象とし ては半数が浪人生で、2浪も珍しくなかった。実技も知識においても圧倒され、ようやく2年生で 追い付いた感じで、少し余裕が生まれた。 3年生になり、さらに知識や教養のために映画とか展示会を観るようになり、社会としても新しい 「デザイン」を広く衆知させるための講演会も盛んだった。授業が終わってからでも都心まで小1 時間で駆け付けられし、無量であることが多かったので、グラフィックデザインも含めて何でも受 講した。(※当時、東京造形大学は中央線の終点、高尾が最寄り駅だった。) どれも刺激的で、グラフィックの分野は当時、既にスターデザイナーと称される方々が駆り出され 、話そっちのけでミーハー的に参加する人も多かった。 一方、インダストリアルデザインは外人の講師か、協会から派遣された社内デザイナーが多かった ように思う。栄久庵憲司さんも記憶しているが、とにかく地味で実務的なセミナータイプだった。 ところが! 招かれた外国人講師のアカデミックな内容とは異なり、日本人、つまり企業勤務のデザイナーによ るものは実務的で、企業はデザイナーに何を求めているか、に軸足か置かれ、ここで人生初めて、 「売れるデザイン」という言葉を耳にした。とても衝撃的だった。 これに加えて、やがて登場する「デザイナーは自分がデザインしたものを作品と呼んではならない」 というものがあった。つまり、企業(メーカー)の前では無私であれ!ということだ。 デザインを学び、卒業すれば、その学生は「芸術学士」である。一切の余分なものを介さない芸術 の一端である。それが、卒業して社会人になれば、その立場を捨てて、企業利益のため、儲かるも の目指して邁進する!?えぇぇぇ〜! 断じて受け入れることが出来なかった。相当落ち込んだ。 この発想はアメリカが端を発しているのは明確で、虚栄心を煽った50年代のフルサイズカーや、 敢然に娯楽に堕した映画、ケバケバして商品パッケージデザインなどなど、ま、このことは別の ファイル「×売れるデザインに詳細を記している(記す予定)。 イタリアのカロッツェリアの存在に感動して工業デザインを学んでいるのに、その先で舞ってい るのは「売れるデザイン」、販売促進的なデザインとは!私は激しく動揺したし、実際、それは まるで社会現象のように浸透していった。そして、そのことを誇らしく振る舞っていたデザイナ ー達が許せなかった。 それとは別に20才になった私は様々な感動的なものに接することが出来た。中でも文学を読む ことが苦手だったので、映画を観るようにした中で感動した作品の数々は私の人間形成に少なか らず影響を受けた。入門として黒澤明監督の「生きる」、「羅生門」、「七人の侍」は映画とい うメディアの可能性を感じさせ、これはまず人間としてある程度の域に達していないと、観る視 覚さえ問われると感じるほどだった。 さして、私はついに運命の名画「2001年宇宙の旅」に巡りあった。 記憶は定かではないが、夏休み明けの1968年の9月第一週だったと思う。 劇場は東京は銀座の「テアトル東京」。午後3時過ぎの部。混んでいると思ったら、何とガラガ ラで、私の指定席は本当にど真ん中。観客は10名ほど?、何か逆に不安になった。 いよいよ始まった。 予告編は普通のスクリーンで、「アレ?」と思ったが、やがて一瞬間を置いてシネラマの巨大ス クリーンがスルスルと開いていった。デ、デカイ!!観る前の感想だ。 映画が始まると、あの有名な冒頭のシーンがあの曲によって映し出された。私は最初から身体が 震えた。今迄に経験したことのない感動。私は宇宙に引き込まれ、神の世界に入っていった。
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